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中村哲著 天、共に在りから 3

第4部 砂漠に訪れた奇跡

「主はわが牧者なり われ乏しきことあらじ 
 主はわれをみどりの野にふさせ、憩いの汀に伴いたもう
 たといわれ死の陰の谷をあゆむとも、わざわいを恐れじ
汝、我とともにいませばなり。
かならず恵みと哀れみと我にそいきたらん」
ダビデの詩(詩編第23篇より抜粋)

小高い丘から望むと、砂漠に囲まれる緑の人里は、壮大な天・地・人の構図だ。厚い砂防林の森が、砂漠と人里とを、くっきり分けている。過酷な自然の中で、人間は身を寄せあって生きている。生殺与奪の権を持つ大自然を前に、つつましく生命を営む様子に、改めて「天、共に在り」という実感と、安堵を覚える。自然は喋らないが、人を欺かない。高く仰ぐ天が、常にあることを実感させる。絶望的な人の世とは無関係に、与えられた豊かな恵みが在ることを知らせる。

2009年7月下旬、用水路先端は23キロメートルを突破。2009年7月3日の開通は、こうして実現した。現場は熱狂的な喜びに包まれ、涙を流すものもいた。
PMSの農場開拓は、こうして不動の基礎を得た。濁流の取水から約25km、ガンベリ平野は平和である。かつて一夜にして開拓地を砂で埋めた砂嵐も、一瞬にして家々を呑み込んだ洪水も、広大な樹林帯に護られている。幾多の旅人を葬り去った強烈な陽光もまた、死の谷を恵み谷に転じ、豊かな収穫を約束する。二万本の果樹の園、膨大な穀物生産、野菜畑、砂防林から得る薪や建材、多くの家畜を養う広大な草地、今や自活は可能である。悪化の一途をたどる政情を尻目に、静かに広がる緑の大地は、もの言わずとも、無限の恵みを語る。平和とは概念ではなく、実態である。

終章 日本の人々へ
現場を離れて突然帰国すると、奇妙な違和感がまとわりついてくる。それが何なのか、問い続ける。こざっぱりして綺麗な空間、行き交う人々が垢抜けて見える。不純で粗野な感じも、土埃も、重機の唸りも、餓えてさ迷う人も、銃弾から身を守る必要もない。華やかな街路に、思い思いのお洒落に身を包んだ若者や女性たちが目につく。平和な国である。

ーーーー都会でも田舎でも、決定的な郷愁の断絶は、人のにおいのようなものが消え、自然もまた論評や撮影の対象になり、我が身で触れて畏れや驚き喜びを覚えるものではなくなってしまった。私たちは何かのベルトコンベヤーのようなものに乗せられ、車窓を過ぎ行く景色のようにしか自然を意識することがなくなってきている。
極言すれば、私たちの「技術文明」そのものが、自然との壁を作る巨大な営みである。時間や自然現象さえ支配下におけるような錯覚の中で私たちは暮らしている。かつての知識や情報がこれほど楽に入手でき、これほど素早く移動出来る時代はなかった。だが、知識が増えるほど利口になるとは限らない。情報伝達や交通手段が発展すればするほど、どうでもよいことに翻弄され、不自然な動きが増すように思われて仕方がない。これが自分の考えて過ぎであることを祈る。

人間にとって本当に必要なものは、そう多くはない。少なくとも私は、「金さえあれば幸せになれる」という迷信、「武力さえあれば身が守れる」という妄信から自由である。何が一として最低限共有できるものなのか、目を凝らして見つめ、健全な感性と自然との関係を回復することである。
今大人たちが唱える「改革」や「進歩」の実態は、宙に縄をかけてそれをよじ登ろうとする魔術師に似ている。だまされてはいけない。王さまは裸だと叫んだ者は、見栄や先入観、利害関係から自由な子供だった。それを次世代に期待する。
「天、共に在り」本書を貫くこの縦糸は、我々を根底から支える不動の事実である。

是非詳しい内容は著書には書いてありますので、購読をおすすめします。



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