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250. 家を家たらしめているのは住人であるように、noteをnoteたらしめているのもnoterさんなんだと思った話。


誰も住んでいない家を見ると、寂しくなる。

自宅の目と鼻の先に、2軒の古くて小さな空き家がある。

古いなぁと思ってはいたが、ついに来月取り壊されるらしい。


2軒とも、おばあさんが一人暮らしをされていた。

お会いした際に会釈したり、
たまに立ち話をしたりするだけだった。

でも、ほぼ毎日、そのお家の前を通っていたので、

おばあさんが洗濯物を干されていたり、
自転車に乗って外出されるところを
見かけたりするたびに

おばあさん、元気に暮らされているんだなと思って
ほっとしていた。



先月、左側のお宅のおばあさんが、
今月、右側のお宅のおばあさんが退去された。

だから、もう、そうしたお姿をお見かけすることがなくなった。

私物が一切なく、誰も住んでいない家を見るたびに、
寂しいような悲しいような気持ちになる。

どこに引っ越されたかは分からないけれど、とにかく、
どうか、おばあさんが元気に幸せに暮らされていますように、と思う。



そして、来月になったら、
今はまだあるこの家すらなくなってしまうのか、と思うと
心のざわざわしてしまう。


そして、ふとnoteを思い出した。


noteって、家みたいだな

って。



だから、

更新が長らくストップしてしまったnoteを見たとき
寂しい気持ちになるのかな。

アカウント自体がなくなってしまったとき、
寂しくてたまらなくなってしまうのかな。

そんな気がしました。



茨木のり子さんの「廃屋(はいおく)」という詩を思い出しました。

  「廃屋」     茨木のり子

 人が
 棲まなくなると
 家は
 たちまちに蚕食される
 何者かの手によって
 待ってました! とばかりに


 つるばらは伸び放題
 樹々はふてくされて いやらしく繁茂
 ふしぎなことに柱さえ はや投げの表情だ
 頑丈そうにみえた木戸 ひきちぎられ
 あっというまに草ぼうぼう 温気にむれ
 魑魅魍魎をひきつれて
 何者かの手荒く占領する気配

  
 戸さえなく
 吹きさらしの
 囲炉裏の在りかのみ それと知られる
 山中の廃居
 ゆくりなく ゆきあたり 寒気だつ
 波の底にかつての関所跡を見てしまったときのように


 人が
 家に
 棲む
 それは絶えず何者かと
 果敢に闘っていることかもしれぬ

家を家たらしめているのは、住人にほかならないように、
noteをnoteたらしめているのも、noterさん自身に他ならない。

他の誰もお手入れなんてしてくれないのだから。


人が
家に
棲む
それは絶えず何者かと
果敢に闘っていることかもしれぬ

茨木のり子さんの詩「廃屋」より


noterさんが
自分のnoteを営み続けるということは
「生みの苦しみ」と日々
果敢に闘っていることなのかもしれない。




だから、
家を見ると、ほっとするんだよ。

その人が
一生懸命生きていることがわかるからだよ。

そこにいてくれているだけで、嬉しいんだよ。


◯◯さん、今日も更新してくれている

そのことだけで
力をもらえるんだ。



アイコン自体も家みたいですよね。

通知でアイコンを見るたびに、
「◯◯さん、読みに来てくださったんだ!」と嬉しくなります。

読んでもらったり、
読みに伺ったり、

noteでは、家におじゃまし合うような感覚があります。





悲しいかな、掃除しても、
すぐに汚れてしまう自宅をせっせとお手入れしているように。

noteも、毎日少しでもいいからお手入れしたいと思っています。

60点でもいい、なんなら30点でもいいからお手入れしたいです。

いつまで続けられるか分からないけど、
今はそう思っています。


我が家のように
noteが大切な場所だからだと思います。




本日は以上です。

今日もこのnote(家)に
足を運んでくださり、ありがとうございました。

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