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しゃべり過ぎる作家たちのMBTI(4) おフランスは甘くない

これまで「MBTI」を分類ツールにして日本の作家や作中の登場人物を見てきたが、外国の作家ではどうだろう、と考えてみて、案外?なところにぶち当たった。

私は学生時代の専攻が仏語仏文学で、主として19~20世紀*の「象徴派」と言われる詩を扱っていたのだが、そのうちBig Nameといわれる5人がいずれも「INT-」であるように感じる。
この5人の名前と作品に関する定説を時代順に抜き出してみるとこうなります。
ボードレール:退廃的な唯美主義を気取る自意識過剰ダンディ
ヴェルレーヌ:柔弱、優雅、メロディアス
ランボー:Enfant Terrible**
マラルメ:端正な紳士とポストモダン的アヴァンギャルドの両極端
ヴァレリー:擬古的な衣からモダニズムをのぞかせる知性派

「詩」というジャンルに対し、いわゆる「ポエム」のイメージを持つ人も多いから、詩人には一見「F」タイプが多そうに見えるのだけれど、「言語化」という作業に極めて意識的であったこの5人にはいずれも「Cogito」を感じる。これは17世紀の哲学者デカルトの「我思う。故に我あり(物理的な自己を含む外界の存在は疑えても、今ここでそれを考えている私の存在は疑えない)」のラテン語形。冷静さとか客観性、あるいは三人称小説における「神の視点」とも違う「書いている自分を意識している私」といえばよいだろうか。書き様は違っても、彼らはつねに自己の存在につきまとい、意識に浮かび上がってくる「Cogito」をもてあます自分をどのような情景に仮託し、それをどう言語化すればよいのか、を常に考え続けていた。

例えばボードレールの散文詩集「パリの憂鬱」にある「この世のほかならどこへでも」。ふさぎ込む語り手が様々な旅行先を提示され、行きたいのはこの世のほか、と叫ぶ。自分がこの世でどういった状況に置かれているかは関係ない、自分が自分であるというそのことに苛立つ気分。またはランボーの「Illumination」の自分が自分であることを忘れる「陶酔」の希求。

極めて情感が豊かで、5人の中では一番花鳥風月を好みそうなヴェルレーヌにも、「巷に雨の降る如く(「秋の日のヴィオロンのため息の」と並ぶ上田敏の名訳がありますね)」には「愛も憎しみもないのに、何のためにか分からないこの胸の痛み。これが一番悩ましい」という句があったりする。

マラルメ、は難しい。詩は極めて好きなのだけれど、いわゆる「ポストモダン」にもてはやされたおかげで手が届かなくなってしまった。私は単純にデカルトの徒***で、「Ce qui n’est pas clair,n’est pas français(What is not clear, isn’t French language)」故にフランス語を愛する者である。学生時代は「ポストモダン」の全盛期であったが、アイディアはともかく、結局何の意図でその著作を出したのか、どういう筋道で結論にたどり着くのかが全然分からなかった。今でも分からない。現役の科学者がポストモダン的文体で科学用語を濫用した偽論文を現代思想系雑誌に投稿、受理されたことでその「unclear」さを明らかにした「ソーカル事件」を知ったときは心密かに拍手した。

「ポストモダン」でなくとも、フランスには時々出ますね。妙に詩的な文章を書く科学者。古くはパスカル、我々の世代の流行ならミシェル・セール。こういうのは苦手だけど、科学史家バシュラールの提唱した四元素分析****はちょっとやってみたい。

脱線が過ぎました。マラルメについては、ヴェルレーヌ同様、女性への思慕を歌ったものが優れていて、しかしヴェルレーヌより硬質に感じられるのは、「精神(Cogito)を持つ」のが語り手ではなく語られる女性のほうで、女性の自我をはっきり表現しているためではないかと思われる、と言うにとどめよう。

でヴァレリー。これは私の卒・修論の題材です。そのころはエッセイを主に扱ったが、中年になってみると、彼の集大成は40代の詩集「魅惑(Charme)」であって、若書きのコントはその助走、亡くなるまでの膨大なメモや論文はその解説であるような気がする。結局のところ、彼がその数多い著作で示したのは、「エロス」の原義が「知(を求める行為)」であるとおり、主知主義は官能的な快楽と重なり合う、ということではないかと思う。そのエッセンスは、「創世記」の誘惑の蛇を描いた「蛇の素描」。今の私にはヴァレリーの70年余りの生涯はこれを残すためにあった、とさえ思われる(ここでなぜか、沢田研二の「ストリッパー」を思い出すーリアルタイムで聞いたことはないが、自分より少し年上の人がカラオケで歌ったりしますねー「俺のすべてを見せてやるからおまえのすべても見たい」。どうしても笑ってしまうけどそうなんだろうな、と)。

*実際にそういう研究があれば見たいけれど、19世紀のフランス、市民社会が確立して物書きが職業として認識されるようになるまでの経緯を作家の「親の職業」で見ていくと面白い。革命後数十年の幅でその時代に特徴的な身分や職業に就いている人間の息子が文筆家になって、時代の空気を体現する。革命直後は落ちぶれ(地方)貴族かナポレオン政権下の将校、その後地方のブルジョワ、都会のプチブル、で世紀の後半になると公務員。ここに挙げた5人のうち、ヴェルレーヌとマラルメの父親は市役所勤務。ランボーの父親は戦場に出るというより官僚的な職業軍人。ヴァレリーの父親は税関吏です。

**訳語は「恐るべき子供」。20世紀の詩人・劇作家のコクトーの小説(映画もあり)「恐るべき子供たち」から来た言葉ですが、小説の内容とは関係なく「破壊的なセンスを持つ天才児」の意味で使われますね。

***ただ、専攻と関係が深かった言語学でいえば、「デカルト的方法」で構造分析をするチョムスキー派ではない。講義を受けたことはあるが、分析方法が技術的な意味で難しく、2年でギブアップした。就職してから分かったが、悔しいことに私の頭は理論的ではない。言葉の分析が好きなのは、「人間という動物が言語を生み出す仕組みをシミュレートしたい」からではなく、「世の中に色々面白い言語現象があるが、その地理的・歴史的背景を知りたい」からである。「深層分析」ツールを開発してAIの言語モデルを作るよりフィールドワークで方言地図を描くタイプですね。今の仕事でも面白さを感じるのは、「データがしゃべりだす」瞬間に立ち会う時。調査の初めはまあこんなところから、と予備的な視点を定めてデータを集めてゆくのだが、そのうちにデータの陰にある官庁の政策的方向とか、業界のトレンドが図式にまとまってくる。それをクライアントの関心に合わせて調整し、報告書にまとめるのが主な作業なのだけれど、職務経験を積むにつれて、データの声を聞くのが楽しくなってきた。
お仕事話のついで。色々な国の調査報告を見ますが、フランス語圏をメインに扱っていて助かるのは、統計が充実していることですね。意外、と思われる方々もおられますが、フランス人は数字が好きです。これは旧フランス植民地だった国にも受け継がれていて、アフリカの小国でも官庁のサイトで3か月ごとの市場統計をきちんと出していたりする。有難し。

****森羅万象を火・風・水・土の四元素に分類するギリシャ以来の伝統に則り、文学作品をその要素別にイメージ分析する文学理論。ヴァージニア・ウルフの「波」の分析論文を読んだことがあるが、論文としての出来はいざ知らず、とにかく面白かった。この四要素は、西洋占星術の好きな方にはおなじみと思うが、自分の場合、同じように生まれの年月で占う四柱推命(こちらは「火水木金土」の五元素)とは支配元素が全く異なる。西洋占星術では「風」が支配元素だが、四柱推命では圧倒的に「火」が強いということだった。西洋占星術の場合、例えば同日ほぼ同時刻に同じ産院で生まれた人の宿運は同じになってしまうが、四柱推命のほうが名前が入るだけまだ個性の反映になるだろうか?

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