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世界の広さ。変わるもの。信じられるもの。

インターネットが普及して、遠い所の人とも繋がれるようになった。

顔を合わせたことのない人とメッセージのやりとりをするというのも楽しいと思う。DMなどの個人的なやりとりがなくても、個人の投稿を見ることで繋がりを感じられる。
海外での出来事も、リアルタイムで知ることができる。憧れの人の私生活が垣間見えることもあって、それも確かに楽しい。
まだ知らないことがあるのだと。
好きな人は今、こんな場所でこんなことをしているのか、と。
そう思って、世界の広さを実感する。


でも、自分の知らない場所があること、
知り得ないものがあることを感じて、
なんとなく悲しくなる。寂しくなる。

どれだけ好きでも。
憧れていても。
その人の「それ以上」を知ることは叶わない。

確かに存在を知っている人なのに。
その人の生活は分からない。
人となりを知ることは叶わない。

知らないことが世界にたくさんあると分かるというのは、外国語を学んだり、知識を得るきっかけにはなるだろう。

しかし、そんな知識を得たところでその人との繋がりが深くなるわけではない。
相手が人間である以上、触れられないのだ。
生活を知ることも、
その人の本音を聞くことも叶わない。

人間は変わる。
変わり続ける。
この瞬間も、変わっている。
何もかも同じである時などない。
人間など、不確定な存在なのだ。

その不確定さを受け入れて信じるのは難しい。
ましてや画面越しに見ることしかできない人間や、
直接言葉を交わせない人間など。

私は怖くて信じられない。
私の信じるものが真実とは限らないから。
嘘を信じてしまうくらいなら、知りたくない。
生きた人間の汚さを知ってしまうくらいなら、見てしまうくらいなら、その人を知らなければ良かったのだ。

清廉潔白な人間などこの世にはいない。
だからこそ、盲目的になってその人を美しいと思い込んでしまいたくない。
整った部分だけを見て、整った人間と思い込むのは嫌だから。

私自身がそう信じたために、思い込んだために、裏切られたからそう思うのか。
いや、正確に言えば、私が勝手に信じて勝手に傷付いただけか。
私が考えすぎなだけかもしれない。

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