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風俗研究家 木村荘八

永井荷風「濹東綺譚」から

2024.2.14
永井荷風(明治12年~昭和34年)の
「濹東綺譚」は昭和12年4月16日~6月15日
朝日新聞の夕刊に掲載されて木村荘八が挿絵を描いた名作中の名作。

荷風は昭和11年3月末から向島区寺島町・
玉の井と呼ばれる私娼屈に魅せられ頻繁に
通い一人の女性をモデルとする。小説では
「お雪」とし、いかにも理想の明治の女性として「わたくし」との関係を小説に仕立てていく。玉の井という地名も荷風によってその後 名を馳せたと言ってもいい。

私は荷風の小説や他の作家の荷風論など読んでいるうちに、江戸· 明治を思わせる荷風の情緒ある文章が大好きになり少しずつ読むようになった。また文学とはまた違った、荷風の人間性に尽きない興味を抱いた。
荷風の魅力はまた 少しずつ書いていきたい。

話を「濹東綺譚」に戻すと、この小説が名作と呼ばれるには木村荘八の挿絵による貢献は絶大なものとは誰もが知るところ。
木村荘八は今の東日本橋生まれ、両国の賑やかな店の並びと 花街柳橋が近いこともあり、風情ある画は育った地が根底にあったのだろうと思う。
そのため、私は荷風と同時に興味をもった木村荘八の書いたこれらの随筆を読んでみた。

表紙カバーにも記されているように、木村荘八は画家.版画家.随筆家である傍ら東京風俗の書き手の名手だ。最近読んだ「東京繁盛記」は昭和に執筆されたものだが、明治の面影と今 目にしている昭和の風景を丹念に描き,考察をするという、すごい本だった(*_*)
荷風も歩く風俗家だが、この人も しっかり東京を歩いて見ている。

「濹東綺譚」挿絵余談

話が長くなってしまったが、やはり荷風と
玉の井のことは木村荘八の挿絵を語る上で
はずせないm(_ _)m

「東京繁盛記」の中のひとつ
「『墨東綺譚』挿絵余談 」の項では 描くにあたって大変苦心したことが書かれている。
挿絵依頼の時には全編の原稿が揃っていたのはありがたかったと言う傍ら

かねて私は挿絵は本文に対する、浄瑠璃節の太夫と絃の関係でなければならないと思っていますので、出来るならば太夫より以上といってもいいほどに絃の挿絵師はテキストに通暁しなければなりません。
(中略)
私はこいつは背水の陣だと考えて、唸ったわけです。音を上げますが、相当苦心しました。

と、すごい意気込みをもらしている。
何故なのか、木村荘八の言葉尻が難しくて理解しにくいのだが、私が思うところは…
玉の井というまだそれほど地名に明るくない頃であり、またこの地は、どぶ川に蚊の湧く汚れて暗く娼家の密集した隠れ家みたいな場所であり、それを荷風が墨東と名を明らかにしたからには後日も残る場所にせんがための荘八なりの決意とプライドみたいなものがあったのではないかと思うのだが。
今でいうバラバラ殺人事件もひっそり起こった場所 (^_^;)

亀戸で娼家をやっている知り合いの所に邪魔にならない時間に写生に行ったり、玉の井の地図を買って十回ほど固有名詞の箇所を歩いて写生しそれを地図に書き込む。
何度もテキストを読んで目に浮かぶ様を挿絵にしていったそうだ。

ただ主人公の「お雪」が登場するたびに、これはすらすら行きません。

そんな私の絵がうまくいっていたかどうか、成敗は既に私のものでない、天だと思って観念しています。そして何よりも前後二ヵ月に渉って、例え私が失敗を演じたにもせよ、かくまでも面白い仕事をすることが出来た今年の廻り合せを、深く永井さんに感謝しています。

そして最後に

永井さんには同時に作中の幻想を私が破ったかも知れない廉(かど)に依って御詫びもしなければなりますまい。

という文章。
自分のできる限りのことはやったという気持ちがひしひしと伝わってくる。
何度眺めても お雪さんの仕草や、玉の井の場末の風景は素晴らしい。

一方 荷風は「断腸亭日乗」の昭和12年4月15日の日付には朝日新聞に載ったことは記している(掲載は16日からなのだが、なぜか荷風は15日)
掲載最終日の6月15日の記述は残念!岩波文庫の「断腸亭日乗」には省いてある。
荷風も満足だったと思うのだが。
やっぱり全集ほしいなー(^o^;)

木村荘八の「東京繁盛記」にまさか
このような「濹東綺譚」の苦労話が記してあるとは思ってもみなかったので今回綴った次第。 
荷風はもちろん、木村荘八の随筆は今後もずっと読み進めて行きたいし、明治から昭和あるいは江戸の在りし頃の情緒を楽しませてほしいと思っている。



#永井荷風   #木村荘八 #濹東綺譚
#東京繁盛記 #お雪 #玉の井

















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