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淘汰されるものされたもの

つい先日「淘汰されるもの」についてCody・Lee(李)のギター兼コーラスである力毅さんがスペースでお話しされていたのを聞いた。
サブスクで音楽が聴ける今、CDなどのジャケットを見て買う「ジャケ買い」が淘汰される(されそうである)ものとしてお話しされていた。
私自身ジャケ買いをした経験はないものの、タワーレコードを歩いている時CDの形式やCDのジャケットを見て素敵だなと思うことは往往にしてある。またそれはCDのみならず書籍に及ぶと考える。
なんだか面白そうだなと思い買った小説や、オシャレだなと思って買ったファッション誌が我が家には手付かずのまま積み置きされている。
「CDの」ジャケット買いは淘汰されたのかもしれない。CDを買う必要性はサブスクやYouTubeで音楽を楽しめる今あまりないのかもしれない。よっぽどの収集癖やマキシマム ザ ホルモンのファン「はらぺこ」の皆さん以外は触れることすらないのかもしれない。
ただ、小説や雑誌の表紙や巻頭、映画館にあるポスターを見て面白そうだと感情が動く感性はまだ消えていないと思う。

そんな私が淘汰されたのかもしれないと感じるものは「奇抜の概念や感性」だと考える。
一昔前といっても私は四半世紀も生きていないのだが、それでも10年ほど前はきゃりーぱみゅぱみゅの衣装は奇抜で先進的であったし、草間彌生の作品は新進気鋭だった。
しかし、それらは芸術や自由を象徴する存在であるかのように次第に社会や日常に溶け込みそれらを真似する人々も現れた。
奇抜な容姿の方に奇抜だと声を掛けるのは、ルッキズムの名残りかもしれない。見た目だけでは判断できない、判断することを悪とし物事の本質を見極めるべきだとされるそんな時代がやってきたことで、私たちの奇抜に対する概念はもはや奇抜ではなくなり、それらを捉えていた感性は個人の捉えてきた奇抜の概念が淘汰されたのと同時に淘汰されたのではないかと考える。
淘汰された概念や感性は「奇抜」だけではない。「かわいい」や「かっこいい」ももはや誰も彼もわからない。正確には誰にもその概念を説明できず、人の感性に干渉できず、私たちはそれを誰にも説明できないから理解できないしされないのではないかと思う。

それゆえに私たちはたまに出会う話の合う人々や友達、恋人、仕事の人を愛すべき人としてこよなく大切にしてしまう気がする。年齢を重ねるとともに淘汰され続ける自分自身の感性でさえ、時々理解者が現れて仕舞えばそれはもう特別なその人と自分だけにしかわからないものになる。
私たちはおそらく人生をかけてそういった人を多く見つけて理解し合ったり、その人の話を聞いて自分の考えを自ら破壊しその人の考えをまるで自分が今まで大切にしていたことであるかのようにしたりして、淘汰し合っていくのだと思う。

皆さんの思う淘汰されたものはなんですか。

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