「光る君へ」のための平安準備情報 最終号?

ずっと先にはじまる「光る君へ」のために、個人的なたぎりを書き散らしてきたこのブログ…
気づけばもうあと1週間で本編を見られるようになりました。

楽しみすぎる!!

楽しみなこと① 神々の学識が提供される

まず、関連情報(書籍、インターネット、監修等)に平安クラスタからすれば神レベルの方々が降臨し、その学識がふんだんに提供されています。
このレベルの情報提供がなされるのは空前絶後のことと思われます。
誇張なく、平安時代の知識の総レベルアップ状態です。

楽しみなこと② 平安クラスタの裾野が広がる

①と関連し、人々の平安時代への興味関心が広がれば、
間違いなく裾野が広がるでしょう。
裾野が広がる=文学部国文学科、日本文学科(のような学科)に
進学したい人が増える、進学を後押しする人が増えるといいなと思います。
実学主義な昨今…国文、日文系はなかなか風当たりが強い時代です。
でも…
住んでいる国の古典文学…もっともっと好きな人が増えて学ぶ人が増えて
伝えられる人が増えたらいいなと思います。

楽しみなこと③ 平安時代が可視化される

邸宅、衣装、生活様式、貴族同士の関係…わからないこと、少なくとも私が知らないことがたくさんあります。いや、知らないことだらけです。
もちろん映像用にアレンジされることも多いと思いますが
一定程度最新の学識が反映されたものが可視化される。
これはものすごいことだと思います。

楽しみなこと④ 公任さま

最後に公任さまのことを。
町田啓太さん、以下の本のなかで、「わが紫と言ったという説がある」
という内容のことをインタビューでおっしゃっています。

これ、どういうエピソードかと言いますと、1008年11月1日、一条天皇と
藤原道長の娘、彰子との間に誕生した敦成親王(あつひらしんのう)の五十日(いか)の祝い(赤ちゃんが生まれて50日目を祝う日)の日に、盛大な宴会が行われ、そこで、藤原公任が、

「このわたりに若紫やさぶらふ」
このあたりに若紫はいますか

と問いかけたということが『紫式部日記』に書かれているものです。

この会話、実は信じられないほど大切なものです。

源氏物語の成立年代のめやす

当時の女性は基本的にそうなのですが、紫式部も彼女の人生の詳細はあまりよくわかりません。生没年も本名も…(「まひろ」という名付けに対して、もの申されている意見も見ますが、個人的にはめっちゃいいと思っています。正直、絶対嘘なんですよね…本名に対する学説はありますが、確定はできていません。わからないことなら、いっそ絶対嘘に振り切るのはすごくいい選択なのではないかと思います。清少納言も同じです)
そのなかで、公任が問いかけたこと、それを日記に書き記してくれたことで、
①1008年段階で「若紫」という言葉が伝わるくらいまでは『源氏物語』が流通していた
②紫式部は「光源氏がいないのに、紫の上はましていない」と思っているので、若紫が光源氏と結婚した「葵」巻以降まで成立していた
という非常に大きなポイントがわかります。
そもそも、平安時代の物語で作者が確定できるのは、『源氏物語』くらいです。それは、紫式部が同時並行で『紫式部日記』も書き記しているという偶然の産物です。日記を書いてくれなかったら作者がわからないはずだったのです。日記を書いてくれていただけで奇跡なのに、公任が問いかけてくれたから、それを紫式部が書き記してくれたから、当時の状況が少しわかるようになったと思うと……エモい!!!

公任ほどの人さえ源氏物語を読んでいた

藤原公任という人。家柄、学識、すべてが申し分のない憧れのエリートでした。それほどの人でも『源氏物語』を読み、それを宴会の場で口にさせるほど、「オシャンティ」なことだった、ということ。
これはかなりすごいことです。

女子供の読むもの=物語

平安時代。
それは性差のものすごくはっきりした時代でした。
このあたりのことを現代的な視点から解釈したものとして、
先日第33回ドゥマゴ文学賞を受賞した『ミライの源氏物語』があり、非常に興味深いです。

個人的にはすべてを現代の視点から解釈するのはなかなか難しいのではないかとは思っています。
そうではあっても、とにかくとてもはっきりとした性差があるのは確かで、
そのなかで、とにかく物語は女子供の読むものとして評価が低かった、
だから作者も伝わらない、というのが事実としてあります。

それを。
公任は読んでいた。
ちなみに言うと一条天皇も読んでいます。
これは彼らが先進的だった、という点はもちろんあると思うのですが、
一方で、帝や当時一流の知識人さえ引き込む『源氏物語』のあらがいがたい魅力を示すものです。
公任の言葉は、まさに、『源氏物語』がそれまでの性差から生じる概念の
ブレイクスルー的作品であったことを示すものであるのです。
これは、現代なお重くのしかかるジェンダーの問題までを鋭くえぐる事象であるといえます。

公任にとっての圧倒的敗北の瞬間

上記のようなことは今までもなんとなく考えていましたが、今回、公任、そして道長など、具体的な俳優さんが配されることで、なんというか平安時代の人々に血肉が通ったような感覚があり、それにより、違ったものが見えてきたような思いがあります。

道長の娘が帝の皇子(男子)を生む。
その子が当時の高い乳幼児死亡率のなかで、ひとまず五十日を迎えている。

これは、このあと必ずこの皇子が帝位につき、それを補佐するのは道長であり、決して公任ではないことを決定づけた瞬間でもあります。

決して公任ではないことを決定づけた瞬間

太政大臣を祖父に持ち、姉は中宮である公任。自分が道長の立場であってもおかしくなかった公任にとって、どのような思いで迎えた日だったのでしょうか。そのなかで、自らを大権力者、パーフェクト貴公子光源氏に擬するような発言をした公任の胸の内が推し量られます。あるいは『源氏物語』がまだそこまでできていなければ、須磨や明石に流離した光源氏の心情に仮託した?のかもしれません…

わが紫

そしてその発言は「わかむらさき」はいるか、と問うものでした。
これは基本的には『源氏物語』と関連する発言なのですが、そこから派生して「わが紫」ととることもできます。
なぜなら平安時代には濁音を表す表記がなく、「若紫」も「わが紫」も表記は「わかむらさき」であるため、どちらとも解釈できるのです。
町田さんの発言の真意は、おそらく「私の若紫」ということで、公任の紫の上への慕情を読み取らせるものでしょう。
ガイドブックを見ると道長と紫式部が思い合う仲であるという展開にするのは間違いないようです。
そう考えるともしかして公任の発言は、政治的にも人間的にも道長が手に入れたものを決して手に入れられない公任を描いた瞬間であるのかもしれません。

ごめん、公任…エモい

…最後にだらだら書いて参りました。
基本、来年は、知ったかぶりでもの申す嫌な視聴者にだけはならない、
絶対楽しむんだ!という思いでおります。
もし、補足したら楽しいな、と思うことがあったら、補足編を書くかも?しれません。

とにかく。
平安時代はおもしろくて、源氏物語は最高です。
そんな1年を楽しめたらいいな、と思っています。

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