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(コラム6) 8/15。マイクを向けられ「二度と戦争をおこしてはいけないと思う」と応える映像を見て..

2023年(令和5年)2月11日 建国記念日
過去のblog記事で、「建国記念日」を考える①
 
いまから9年5ヶ月前の「2013年(平成25年)8月15日」
*blog「あなたは、夫の暴力・DVを容認していませんか? 暴力のある家庭環境で暮らす子どもの心を守ることを忘れていませんか?http://629143marine.blog118.fc2.com/」にコラム投稿。
 
 終戦記念日、毎年、慰霊のイベント先や街頭でメディアの問いかけに「二度と戦争をおこしてはいけないと思う」と応える人たちが、映像に映しだされる。
 いっていることは間違いではないと思う。
 けれど、その発言には、「自分たち(自国民)だけが凄惨な被害を受けた」との思いからくる、日本国内だけのことをさしている閉鎖性をどうしても感じとってしまう。
戦争は殺し合い、富を奪い合い、国力の強さの決着をつけ、自国を豊かにするための行い(利権争い)でしかない。
 だから、どちらか一方が被害者で、その一方が加害者ではない。
 どちらも被害者であり、どちらも加害者である。
 最初から勝負が決している強大な国家が、弱小な国家に攻め入る場合は、様相が異なる。
 話が逸れてしまいそうなので、もとに戻すと、前述の発言には、いま、世界のいたるところで戦争や紛争で殺し合いをしている、その殺し合いの犠牲になっている多くの人たちがいることに思いを馳せているようには感じられない。
 そのことが残念でならない。
 「人を殺す人」であった人類の歴史は、常に殺し合い、傷つけあってきた。
第2次世界大戦後も、いまだに世界中のいたるところで戦争や紛争はおこり続け、多くの人が犠牲になっている。
 であるなら、「世界中の人たちが戦争や紛争に苦しまず、核兵器を持たなくていい社会にならなくてはならないと思う。」とことばにして欲しい。
 こうしたことばの使い方に変化がでてきたとき、「家庭内であっても暴力(DV・虐待)は許されるものではない」との認識が浸透し、見て見ぬふりせずに「いけないことはいけない」と口にすることができるようになっていくと思う。
 戦争や紛争と、家庭内で繰り広げられる虐待やドメスティックバイオレンス(DV)とは違うと思われるかも知れないが、実は密接な関係でなりたっている。
 それは、戦争や紛争が終息した国、地域だけでなく、戦地や紛争地に派遣されていた兵士が帰還したあと、DVやレイプ被害、児童虐待、自殺が増えることがわかっている。
 ここには、戦争や紛争という殺し合う社会で傷ついた脳が、何世代にもわたり暴力が家庭内で生き続けるという事実がある。
 これが、人類が歩いてきた道程である。
 家庭内で繰り返される支配のための暴力・DVを受けるストレスは、戦地や紛争地から帰還する兵士、戦争や紛争に巻き込まれる人たちに匹敵するといわれている。
 そして、帰還兵や巻き込まれた人たちの多くは、その後の人生の多くの時間を殺し合いの恐怖の後遺症(PTSD(心的外傷後ストレス障害)の発症、その併発症としてのうつ病の発症など)に苦しむことになる。
 終戦後68年経った今年(2013年)に入り、沖縄で終戦を迎えた人たちの多くがいまだにPTSDの症状に苦しんでいるという調査報告があった。
 報告書の内容とは異なるが、DV被害者支援に携わるものとして、殺し合いの社会で傷ついた脳が、戦後68年経ったいままで何世代にもわたり暴力が社会で生き続けることになっていることを示すものである。
 長く紛争が続いている地区で、小学生に満たない幼児が機関銃を抱えている姿が映像に映しだされる。
 殺し合うことが習慣化され、死を悼み、哀しむ心が麻痺してしまっている。
 戦争や紛争で心が傷ついた子どもたちが成長し、再び、殺し合いの最前線に立つのである。
 いま、家庭内で支配のための暴力(DV・虐待)にさらされている乳幼児たちは、実は、機関銃を抱える幼児となんら変わらない。
 安全が満たされず、死(心の死を含む)と隣り合わせ、恐怖に怯えているのである。
 暴力のある家庭環境で育ってしまったことによる獲得できない脳機能、暴力のある環境に順応し、生き延びるために身につけてしまう考え方の癖(認知の歪み)にもとづくふるまいが習慣化される悲劇に思いを馳せてみて欲しい。
 江戸幕府の崩壊以降続いた列強諸国、富国強兵キャンペーンのもとで突き進んでいった戦争で傷ついた国民の心は、いまだに野ざらしのまま、「もはや戦後にあらず」はほど遠い。
 しかも、そのことに多くの人たちは気づいていない。
 終戦後16年6ヶ月後の昭和37年(1962年)2月に生まれた私にとって、幼少期を過ごした名古屋で、熱田神宮への初詣は、腕や足を失った帰還兵がアコーディオンを奏でる姿が瞼に焼きつく機会だった。
 子どものころの初詣は、楽しい思い出よりも、ちょっと胸が苦しくなる思い出として、確かに戦争が生む惨さとつながっていた。
 1962年の10-11月には、キューバ危機がおきている。
 小学校4年生だった昭和45年(1970年)、映画館でのゴジラの観賞で流れるニュースでは、大阪万国博覧会(EXPO’70)で、アポロ12号が持ち帰った「月の石」を展示したアメリカ館に長蛇の列ができている映像、水俣病、第二水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそくに代表される公害病が問題となり、工業地帯の煙突からもうもうとあがる煙や川に生活排水が垂れ流され海でヘドロ化した映像、そして、2度目の日米安全保障条約(安保条約)に反対する国会議員、労働者や学生、市民および批准そのものに反対する国内左翼勢力が参加した反政府、反米運動とそれに伴う政治闘争、傷害、放火、器物損壊などを伴う大規模暴動の映像、11月25日に、三島由紀夫が陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で、憲法改正のため自衛隊の決起(クーデター)を呼びかけたあとに割腹自殺を遂げた三島事件(楯の会事件)の映像、アメリカで、ベトナム戦争(1960年代初頭から1975年4月30日)をきっかけに激しくなった反戦運動の映像が、5本立ての合間に繰り返し流されていた。
 そこには、戦後からの復興を成し遂げ、そして、高度成長期にあった日本の功罪の象徴的なできごと、一方で、戦後の米ソ冷戦下での体制を構築するためのせめぎ合いが息づいていた。
 終戦5年後に生まれ、昭和45年当時20歳だった人たちは、いま63歳となり、孫がいる人も少なくないと思う。
 65歳定年の企業に勤めている人は、定年退職が身近に迫っている。
 直接戦争を体験した人たちが年々高齢化していく中、戦後の混乱・復興期に生を受け、戦後を感じながら思春期・青年期と成長していった人たちは、平均寿命(男性約81歳、女性約87歳)までの人生をどう生きるのだろう。
 月日が流れ今日まで、原爆の日(8月6日広島、同9日長崎)や終戦記念日(8月15日)をまたいで開催される高校野球で、サイレンとともに黙祷する静寂の時間が繰り返されているが、昭和45年当時、小学生4年生だった私にとって、戦争や戦後の体制を巡るせめぎ合い、人権の獲得(権利)と保障を求めた反戦・女性解放運動は、いまよりはるかに身近なものだった。
 最後に、小学3・4年生ぐらいの児童(女児)が「世界中の人が戦争をしたり、核兵器を使うことがないように祈りました。」とインタビューに応えていた。
 戦中戦後を生き抜き、高度成長を体験し、経済的な豊かさを求め続けてきた人たちより、被害者という色眼鏡をかけて太平洋戦争(第2次世界大戦)を見ないひとりの子どもが真実を捉えていた。

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