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上流と下流、私だったら…。

河の上流と、海に近い下流。

「どっちがいい?」

私より一ヶ月早くnoteを始められた小鉄さん。
一年が過ぎましたね。



「河」は、なにを象徴するのか。

「流れも急だし幅も狭い」が「綺麗」な上流の場合、理想を求めて抗うことはできそうだが、同時に他の価値観や選択肢の存在を排除する結果にもなりかねない。

「汚れる」けど「深くて広くてゆったり」な下流の場合、さまざまな価値観に触れながら時間をかけて選択できそうだが、その頃にはもはや現実しか見えなくなっているかもしれない。

「都会の橋の上」という視点からすると、下流が都会で、上流は都会以外となる。

「都会」では、さまざまな価値観や選択肢に触れることができる『機会』はあるが、人間関係や近所づきあいは希薄になりがちだ。その結果、あるのにない状態に陥ってしまうかもしれない。

『都会以外』の定義は難しい。ただ都会との対比でいうと人間関係は濃い一方で、均一性や単一性という一種の『圧力』のような存在を感じたり、イメージしたりするかもしれない。

「高校生」という視点からすると、主人公たちはまだ上流であり、大人たちが下流で『あった』。

しかし、現在は民法改正により、法律上はすでに成人=『大人』となっている可能性もある。かつては「汚れる」のが遅くて済んだはずの高校生たちは、画一的に下流へ促されているとみなすしかないのだろう。

都会と都会以外、高校生と大人を経験し、上流を求めて現在は下流暮らしだが、いまだに「流れも急だし幅も狭い」が「綺麗」を選択したくなる。

高校生の頃と違う場所で、相変わらず「綺麗」を目指す大人は確実に存在している。どんな場所にいても、どんな状況になっても、変わらないまま生きている無邪気な大人を尻目に、高校生の皆さんは悶々と悩みながらお勉強も頑張ってほしい。

「河」を『組織』と考えた場合、上流と下流の定義づけが曖昧になってしまう。「流れも急だし幅も狭い」となる両者。裁量はあるが自由にできない、裁量はないが自由にできてしまうという逆説的な状況にもなり得る。

守るべきものが登場し、かつ、多義的な存在となってしまう頃には、漂流するしかないのだろう。

これらは組織に限らず、また上流か下流の問題でもなくなっているのかもしれない。

残る「綺麗」とはなにか。

混沌とした中でも揺るがない一つの『想い』であり、迷子になったら問うべき主体的な『作業』でもあると考えたい。それによって「海」という存在や見え方も、きっと変わってくるに違いない。


海産物よりも山菜と温泉好きな私は「山」がある上流好きです。ダウンとデニムだけでスキー場に行き、綺麗な空気を吸いながらソリと食事を楽しむだけで大満足です!

骨折が怖い


あとがき
難問すぎて、意味不明なエッセイになりました笑

私たち一人一人から、家族や友人、社会へと広がりを見せる視点に立つと、「国民」は上流と観念するべきなのだと思います。ずっと「流れも急だし幅も狭い」ままで、振り回されっぱなしです。

臨時国会中で下流どころか遠洋にいらっしゃる皆さまも、上流を仰ぎみていただきたく存じます。

#初心

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