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四谷怪談の現場を歩く(10)

黒船稲荷

南北の家

 東京メトロ東西線に乗り、隅田川の下を通って門前仲町で降りた。この辺りはざっくり深川と呼ばれる場所。清澄通を南に行き、大横川にかかる黒船橋を渡る。

黒船橋
横にあるのは火の見櫓
黒船橋から見る大横川

 橋のほど近くの細い路地を入ったところに黒船稲荷がある。今は小さな神社だが、江戸切絵図を見ると現在の十倍は広かったのではないか。この境内に四世鶴屋南北が晩年を過ごした家があったという。『東海道四谷怪談』はここから生まれた。そしてここは、南北が死んだ場所でもある。

黒船稲荷

  鶴屋南北は宝暦五年[1755]、日本橋新乗物町(一説に元浜町)に生まれる。彼の父は紺屋の型付け職人だった。二十二歳で芝居狂言の世界に入ったが、目が出たのは四十九歳という超遅咲き。その訳を小林恭二氏は『新釈四谷怪談』で、こう推測する。
 一つは南北は国語的教養がほとんどなかった。漢字を知らず、誤字が多い。書物を読むのが嫌い。南北自身、文盲と称していたという。
 もう一つの理由は、南北の出自にある。南北が生まれたころ、紺屋は浅草弾左衛門支配下の賤民だった。これが出世の妨げになったのではないかと小林氏は推理する。
 その後寛政の改革[1787~1793]により、紺屋は弾左衛門の支配を抜け、一般町民と同じ身分になった。その頃から南北(三十台になっていた)も漸く有名になっていったのだ。

 因みに歌舞伎も元々は弾左衛門の配下にあり、河原者とか河原乞食などと呼ばれる賤民だったが、町奉行所の裁判を経て、宝永五年[1708]晴れて賤民身分から解放された。

 南北初のヒット作は『天竺徳兵衛韓噺』、文化元年[1804]のこと。その後は人気作家としての地位を着実に歩み、『東海道四谷怪談』を書いたのは七十一歳の時。そして息を引き取ったのは文政十二年[1829]、享年七十五歳だった。

上:江戸切絵図(国会図書館蔵)
下:google map

 そして、芝居はこの後、隅田川の東岸に舞台を移す。


豆知識

●浅草弾左衛門について
 関八州の穢多の長吏である。長吏は穢多の頭を指す。弾左衛門の名は代々世襲。浅草の山谷堀の北に新町という塀や堀で囲まれた穢多集落があった。その中には、番所や白洲もあり、町奉行所とは別の自治組織で運営されていた。
 穢多の主な仕事はお仕置き御用、町奉行所の人足提供、皮革製造業(例えば武具や太鼓の製作)など。非人や乞胸ごうむね(大道芸人)なども支配下においていた。
 その他にも行商や、一部の職人、下層の宗教者など、弾左衛門の支配の範囲の広さ、影響力の大きさは無視できない。(歴史の授業では、私の頃はほとんどスルーだった。今はどうなのだろう。)
 実は直助がやっていた薬の行商人も賤民なのだ。直助は元は武家の小者という身分だったが、主家が没落して行商人に転じた。
 賤民、穢多、非人、ひどいネーミングだ。生れ出自で身分を決められてしまう社会は、現代の我々には耐えられない理不尽さだ。しかし、社会の脱落者の受け皿になっていた側面もあるということだけは、一言添えておく。

 

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