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将門を祀る?水稲荷神社(新宿区)

 前回の宝泉寺を出て穴八幡宮の交差点に戻り、早稲田通りを西へ進んでゆく。西早稲田の交差点に来たら右へ折れる。道路の左手に水稲荷神社はある。

 長い参道が伸びている。すぐとなりは甘泉園公園で、自然豊かな静かな場所だ。

 主祭神は倉稲魂命。相殿に佐田大神、大宮姫大神を祀る。

 参道に入ってすぐ、左手に大きな石碑があった。堀部武庸加功ほりべたけつねかこう遺跡之碑という、何やら難しい名前の記念碑だ。

堀部武庸加功遺跡之碑

 堀部武庸といっても「誰よ、それ?」と思うが、堀部安兵衛といえばお分かりだろう。『忠臣蔵』の赤穂浪士の一人。堀部安兵衛は高田馬場で、叔父の菅野六郎左衛門の仇討ちに助太刀して三人斬り倒したという。(十八人斬りというのは誇張??)
 高田馬場はこの石碑の背後の早稲田通り沿いにあった馬の調練をする場所のことで、それが地名にもなった。
 この石碑は明治四十三年[1910]に建てられた。日露戦争後の国家主義高揚の空気の中で、『忠臣蔵』も再評価された時代だった。

鳥居をくぐってすぐの所に「国威宣揚」と「平和の礎」という対照的な石碑
「平和の礎」の文字は佐藤栄作氏

 水稲荷神社の創建年はよくわかっていない。以前は富塚稲荷とか将軍稲荷といったようだ。高田稲荷と呼ばれていたときもある。
 一説に藤原秀郷が富塚の上に稲荷神社を勧請したのが始まりだといわれている。天慶四年[941]のことだ。将軍稲荷の将軍とは秀郷のことだろうか。
 また、太田道灌が富塚に松を植えたという話を聞いた上杉治部少輔朝良が文亀元年[1501]に勧請したのが始まりという説もある。

太田道灌
駒繫松
松を植えたのではなく、馬をつないだ??
駒札には山吹の里はここらあたりみたいなことが
書かれていたが・・・
(確かにこのすぐ北の神田川に面影橋はあるが?)

  太田道灌と山吹の里についてはこちらにも書いた。


 富塚というのは大昔の古墳のようだ。石室が狐穴みたいだからお稲荷さんを勧請したのだろうか。
 富塚とは付近に古墳が多くあり十塚といったのがなまったとか、古墳の穴から財宝が見つかったからとかいう説がある。


 神社の最初の場所はここではなく、今は早稲田大学の9号館の裏あたりという。早稲田大学の住所は戸塚一丁目だが、戸塚は富塚から来ている。
 昭和三十八年[1963]に早稲田大学と土地をトレードして、旧徳川御三卿の清水家の下屋敷跡であるこの地に遷座したのだ。
 神社のすぐ隣の甘泉園公園も清水家の屋敷跡である。

甘泉園公園

 遷座の時に富塚や、江戸で最古の富士塚と言われる高田富士も移された。高田富士の写真を撮りたかったのだが、金網に囲われ、しかも白いシートが高く覆っていてよく見えず、断念した。毎年七月に二日間だけ高田富士祭りの日に登れるそうだ。(しかし、新しく土を盛ったのだから、以前の高田富士とは別物ではないだろうか、という疑問はわく)

 水稲荷という変わった名称になったのは、元禄十五年[1702]境内の大椋木の根元から霊水が湧き出て、その水で目を洗うと眼病が治ると評判になったからという。「水」つながりで、消防関係(火消)や水商売関係にも人気があったとか。

 その大椋の木は昭和二十年[1945]の空襲で、社殿と共に焼けてしまった。境内は大学になり、・・・ということは御霊水が湧き出ていたところも、埋め立てられたのか。

 境内になぜかヤギがいた。

 実は馬もいる。(馬の写真を撮るのを忘れた)宮司さんと思われる方が馬の綱をもっておられたので、声をかけてみた。

━━馬がいるんですね。
「飼ってるの」
━━御神馬ですか?
「御神馬じゃない。特に役目は無いの。御用馬かな」
━━それじゃ、ヤギは?
「あれは友達」
だそうです。

 早稲田大学を創立した大隈重信は、水稲荷をよく礼拝されていたそうだ。現在神社にある大正時代の宮神輿は大隈侯の寄付で作られたという。
 現在でも早大との関係は深く、例大祭には早大生やOBが参加して、氏子と共に神輿を担ぐそうだ。


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