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麻布山善福寺に立ち寄ってみた

 麻布氷川神社の参拝を終えて、元来た道を帰るのはつまらないので、仙台坂からぐるっと回りこんで麻布十番駅に戻ることにした。

 氷川神社についてはこちらの記事に書いた。

 一本松坂から仙台坂に出ると建設工事をしているところが多い。そのせいか、やけに警備の人間が・・・いや、待て。工事の警備員じゃない。警視庁だ。

 なぜか警官が多いのだ。よく見れば、韓国大使館がある。入口に金大中大統領と小渕恵三首相が握手している古い写真がでかでかと掲げられていた。
 警官は韓国大使館の入り口にも数人立っていた。

 なぜ、こんなに大勢警備しているのか。誰か重要な人物でも大使館に来るのだろうか。それとも韓国大使館だからこのように警備が大掛かりなのか。
 他の国の大使館は警官の姿など見ない。大抵、ひっそりと静かである。
 ここ数年、韓国と日本の関係はあまり良いとは言えなかった。しかし、韓国は政権交代したし、これほど警戒しなければならないのだろうか。

 三十数年前、母と一緒にこの通りを通った時は、誰もいないような静かな通りだったと、記憶を遡らせてみる。


 麻布山入口の信号の所で左に折れた。麻布山とは麻布山善福寺の山号であるが、地名も麻布山なのだろうか。広い参道の奥に山門が見え、背後に元麻布ヒルズの高層マンションがそびえている。元麻布ヒルズも元々は善福寺の寺領だった。

 参道の両脇も何軒も子院が並んでいる。
 正面の山門(中門)はかつての勅使門という。善福寺の伝承によると、文永の役[1274](蒙古襲来)のときに亀山天皇の勅使寺となり、この門は勅使が通る勅使門と命名されたという。
 幕末にアンベール著の日本誌に絵入りで紹介されたという。
 残念なことに、昭和二十年[1945]五月廿五日の空襲で焼失し、昭和五十五年[1980]十一月五日に再建された。

昔の姿を取り戻した

 善福寺の歴史は古い。弘法大師空海が天長元年[824]東国に巡錫した折に創建されたという。最初は真言宗だったわけだ。
 その後鎌倉時代に親鸞聖人が流刑地の越後から帰還する途中にこの寺に立ち寄り、了海和尚と法談した。了海さんは親鸞さんの高徳に深く傾倒し、一山挙げて浄土真宗に改宗した。

本尊は阿弥陀如来

 了海上人は浄土真宗関東六老僧といい、善福寺は浄土真宗関東七ヶ寺の一つと称されているそうだ。確かに立派なお寺さんである。

 浄土真宗のお寺であるから、当然織田信長と対立した。石山合戦では遠い大阪へ援軍を送ったそうだ。

 江戸時代は徳川の庇護を受け、寺領を広げ、将軍が立ち寄ることもあったという。
 徳川家光から寄進を受けて建設された本堂は、昭和二十年の空襲で焼けてしまった。昭和三十六年[1961]、徳川家康建立の東本願寺八尾別院大信寺の本堂を移築し、新しい本堂とした。(すみません。本堂全体の写真をなぜか撮り忘れている。)

 寺の入り口にこんな石標があった。

 最初のアメリカ公使宿館跡とある。
 安政六年[1859]タウンゼント・ハリスはアメリカ駐日公使に任命され、幕命によりここ善福寺の境内に最初のアメリカ公使館が置かれた。攘夷派の襲撃を受け、庫裡や書院などが焼かれたこともあったという。

初代在日アメリカ公使タウンゼント・ハリスを記念する石碑

 公使館は明治八年[1875]まであった。
 その間に、福沢諭吉や三井物産創設者の益田孝、古河財閥の古河市兵衛などが頻繁に訪れたという。
 福沢諭吉の墓は善福寺にある。

 元麻布周辺に大使館が多いのは、ここに最初のアメリカ公使館があったからかもしれない。

 境内にはこんなものもある。善福寺の逆さ銀杏だ。都内でも古い大銀杏で国指定天然記念物なのだそうだ。なぜ逆さ銀杏というかというと、下に垂れ下った気根が、まるで枝が地面に向かって伸びているように見えるからだという。
 親鸞聖人が地面に刺した杖から成長したという伝説がある。

善福寺の銀杏

 この木は墓地の中にある。墓地の入り口に墓地内の写真撮影は遠慮してほしいという張り紙があったので、外から撮影している。なので肝心の気根が見えず、どこが逆さ銀杏なの?と分かりずらいと思う。

 ということで、平成三年[1991]一月十五日に、筆者が母と一緒に訪れた際の写真を公開する。(写真をそのままスキャンしたので、色褪せしているのはご容赦。)

逆さ銀杏1991
左下に筆者の母が立っている
巨樹の威容が伝わるだろうか?
お分かり頂けただろうか
気根が垂れ下っている
これが逆さ銀杏の謂れ
枝が下に延びているように見える

 そして今回撮り忘れた本堂の写真もあったので、ついでに。

この建物は明和四年[1767]のもの
元麻布ヒルズが無いね

 こんなものもあった。越路吹雪の碑。

右に立っているのは筆者の亡き母
(今の私より若いぜ)

 この銀杏のある墓地は一段土地が高くなっているが、縄文時代の貝塚があったという。が、今見てもどこがそれなのかわからない。土器片も散らばっているらしいが。

 参道の途中に柳の井戸という泉がある。

 この井戸は空海が常陸国鹿島明神に祈って錫杖を地面に突き立てて得た井戸なのだという。親鸞の杖といい、昔の坊さんは魔法使いだね。
 ここは今でも水が湧いている。

 江戸は飲料水に困る土地だったので、このような泉は大変貴重だ。関東大震災や昭和二十年の空襲による大火災の時も、多くの人の命の水になった。
 現在、水質がどうなのかわからないが、能登半島の地震災害で水の確保が困難という報道を聞くにつけ、改めて井戸を見直しても良いのではないかと思うのだった。

 見どころ満載の善福寺。一度訪れてみてはいかが。


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