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『レオナルド・ダ・ヴィンチ』残した手稿からその偉業を読み解く!

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近年、ダヴィンチ作とされた絵画「サルバドール・ムンディー」が見つかり騒然となった。一般の人が持っていたもので、当初13万円の価格がついたそうだ。それがダヴィンチの作品とわかるや、価格は競り上がり、クリスティーズのオークションでは510億円にもなったという。

未だ世界の人々が、ダヴィンチの魅力の前にはひれ伏す。ルーブル美術館でも最も人気のあるのが「モナ・リザ」であるし、イタリアミラノで「最後の晩餐」を見ようと思ったら、早めに予約しなければ見れないようだ。

*ダヴィンチの生涯
名前の由来は、ダヴィンチ村のレオナルドである。だから、本当はレオナルドと言わなければならない。しかし、これではわかりにくいので、「ダヴィンチ」で通すこととする。

1452年に生まれたダヴィンチは、婚外子だった。そのためこのダヴィンチを育てたのが祖父と叔父だと言われている。どうも教育は家庭で行われたようだ。14歳で、彫刻家で画家のベロッキオの工房に入った。このベロッキオのもとで学んだ意味はおおきい。

ベロッキオには、有力な弟子がニ人いた。ギルテンダイオとペルジーノである。その弟子の弟子に、ミケランジェロやラファエロがいたのだ。つまり、ルネッサンスの3大巨匠の大元は、ベロッキオということになる。

30歳のとき、自薦状を持ってミラノ公国にいく。ここで「巌窟の聖母」や「スフォルツァ騎馬像」の模型作成、そして「最後の晩餐」が描かれている。しかし、ミラノ公国はフランスに攻められ、48歳のダヴィンチは、国外へ脱出した。

向かった先はマントヴァとベネチア。数ヶ月滞在の後、フレンチェに行くことに…。この時「聖アンナと聖母子」の制作が開始されたという。しかし、書きかけで、注文主には渡す事はなかった。

チェザーレの軍事技師になった後、拠点をフィレンツェに戻した。ここでベッキオ宮殿内の500人広場で、ミケランジェロとダヴィンチのニ名の画家の対決があったはずなのだが、両者とも仕事が途中となり、この勝負は決着がつかなかったようだ。

54歳になったダヴィンチ、再びミラノに行くことになる。この時はミラノ知事に招かれたもので、そのあと弟子となるメルツィと出会うことになる。17歳のメルツィだが、養子にもなって、ダヴィンチを支え、師の最後を看取ることに…。

60歳となったダヴィンチ。弟子のメルティーとサライを連れてローマへ向かう。ローマでの記録はあまり残っていないようだ。ローマでのパトロンであるメディチが病死。次はフランス国王の招きにより、仏アンポワーズに行くことになった。この時ダヴィンチ64歳。生涯手元において筆をいれ続けた作品「モナ・リザ」、「聖アンナと聖母子」「洗礼者 聖ヨハネ」と向きあい、翌年65歳でその生涯をとじた。

*ダヴィンチの師「アルベルティ」
ダヴィンチより50歳ほど年長のアルベルティ。祖父ともいえる存在だったが、このアルベルティを書物から学んだようだ。幼少期から英才教育をうけたアルベリティ、あらゆる学問にたけていた。建築学、法学、文学、歴史、天文学、絵画、消極、演劇などである。

ダヴィンチは、アルベルティの著作をかなり読み込んだものと思われる。そして、それを自分の血や肉としたようだ。例えば、快楽への戒めでは、こんなことを言っている。「自己の魂を輝かせようと思ったら、快楽を憎み、快楽を嫌悪をしなくてはならない。」と。

またアルベルティは、「画家は神に相当する」とも言っている。ダヴィンチも「画家は万物を生み出すことのできる主人。それは神である」と。アルベルティの考えをそのまま受け入れたようだ。これはまさに天才のみが知るうる境地ということか。

*盟友だった数学者ルカ・パチョーリ
天才数学者で、会計学の父ともいうべきパチョーリ、この人物と出会ったのが1496年(ミラノ宮廷)だった。そして、パチョーリの著作である「スマス」を熟読する。ダヴィンチは、すぐにパチョーリの才能に気づき、交流が始まった。

ダヴィンチの手稿をみると、様々な人との交流が見て取れる。そのなかで、ダヴィンチはこんなことを言っている。「友人を選びなさい」と。さらに続けて「学習態度でその人物の価値がわかる。学習しない人物と交わっても何の意味もない」。

*ウィトロウィウスから学んだダヴィンチ
古代ローマの建築家であるウィトロウィルスからも多くのことを学んだようだ。彼の言葉は、生涯にわたり、ダヴィンチの指針となったと思われる。

「建築家は、才能もなくてはいけないが、それ以上にすべての学問に精通していなければならない。文章学、描画法、幾化学、歴史、哲学、医学、天文学。これらは、人生をかけて学んでいくべきだ。」と。

まとめ
天才芸術家にして、あらゆる学問を貪欲に身につけたダヴィンチ。様々な発明も残している。ハンググライダーやパラシュート。戦車やヘリコプター。さらには天文学では、地球の公転と自転も示唆していると言われている。学校では学んでいなかったダヴィンチ、どうしてここまでの知識を得たかは、まさに謎とも言えるだろう。

晩年のダヴィンチは、メルツィという良い弟子に恵まれた。一方、弟子のサライは、かなり問題ある人物だったが、なぜか大事にしたようだ。そんなところに人間ダヴィンチの姿も垣間見てとれるようだ。

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