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旅の記憶、会津の城下町『会津若松』。人情あふれる町に酔いしれる…。

#旅 #旅行 #会津
#会津若松 #福島県会津
#鶴ヶ城 #喜多方ラーメン  
2010年の秋に旅した「会津の城下町」について記憶をたどりながら、語ってみることとする。

この年の春先、大学時代の友人H氏が居酒屋で唐突に「今年の旅はどうする?」と聞いてきた。しばらく考えて、今回は会津はどうだろうと、私は切りだす。H氏は「僕も東北がいいと思っていたんだ」と、話は簡単に決まった。

旅行当日の天気は、晴天。これは幸先がいいなぁ!と思いながら、我が愛車に乗りこむ。今回のルートは、東京から常磐道をとおり、水戸偕楽園で散策。さらに途中、笠間焼の工房を見学し、会津へ向かうというもの。

朝7時に練馬をでて、昼には猪苗代湖についた。ここで昼食をとった後、野口英世記念館にはいる。会津は、私の父方の郷里で、親戚もおおい。この記念館に足を踏み入れたのは、これで何回目だったか?と、考えながらなかを歩く。

そして、いよいよ会津の城下町「会津若松」に入った。ここでは鶴ヶ城と歴史博物館に立ちよる。

会津というと、どうしても触れなければならないのが、幕末の戊辰戦争。この戦争で、最も犠牲者が多かったのが、この会津だ。全体でおよそ8千人の死者を出したが、会津では2500人ほどがなくなっていると言う。これは旧幕府軍の6割近くになるようだ。

鶴ヶ城のなかは、歴史的な文物や遺物の展示会場となっている。戊辰戦争当時の写真ものこっていた。その写真には城にいくつもの砲弾の跡が残されているものだ。凄まじい攻防戦があったことが想像される。

歴史博物館では、あのアームストロング砲が展示されていた。司馬遼太郎の作品に描かれた大砲。もっと大きなものと思っていたのだが、あまりの小ささに驚く。しかし、この大砲が勝敗に大きく作用したことは、先の写真でもよくわかった。

ただ、このアームストロング砲は欠陥のある大砲だったようだ。故障が多く、この数年後には、製造していた本国イギリスでは使用中止となっている。

簡単に言えば、アームストロング砲の優れた点は、内部にある螺旋状の筋(ライフリング)と、後部からの弾込め(後装式)が、今までにない威力をうんだということ。しかし後部の密閉性が不十分で、しばしば使えなくなるという欠陥を持っていたのだ。

司馬遼太郎を読んで育った世代にとっては、ちょっと意外だったともいえる。それでも、旧幕府軍の会津の人々にとっては、恐ろしい武器だったことは、想像に難くない。

時間は、午後4時近くになっていた。少し早かったが、宿泊地の東山温泉に向かうこととする。会津の奥座敷、東山温泉は奈良時代の僧・行基によって発見されたという。この行基は、民衆への布教を禁じていた朝廷に逆らい、積極的に集団をつくり、人々に仏教を説いていったとされる。

翌朝からは、市内の「作り酒屋」をめぐり、昼食は喜多方ラーメンにする計画だった。
私は酒には詳しくないが、友人のH氏は日々酒をたしなむ人物。向かった先は、末廣酒造。地下水を汲みあげ、使うコメもこだわり、甘くなく、少し雑味もあり、どの料理にも合うという評価だった。

この後、喜多方へと車は向かった。喜多方は父の故郷だ。父方の親族は皆ここの学校を出ている。喜多方には120軒ほどのラーメン店があり、どこに入って良いものかと迷う。とりあえず、駅まで行きラーメン店マップを手にする。

以前この地を訪れたときに聞いた、イトコの話を思い出した!「まこと食堂か、ハセガワが良い」との話し。まこと食堂に入ってみた。なかは雑然としていて、座敷もあるが落ち着かない感じだった。しばらく待つと、目的のラーメンが目の前におかれる。一気に食べおわり「サスガ!」の一言がでた。

この店で土産のことを聞けばよかったが、聞きそびれてしまった。外に出た私たちは、やはり土産が気になる。散策して、一軒のラーメン販売店にはいり購入した。

まとめ
この旅では、親族の家には立ち寄らなかった。あまり迷惑をかけたくもなく、友人のH氏が人見知りなので、遠慮したのだ。ただいつ来ても思うのは、会津の人たちの心暖かさ。

会津弁が、そう感じさせるのかもしれないが…。都会の喧騒とは違って、心癒される旅だった。そんな会津に、母が体調崩したとき、私は預けられた。4歳位のときだったようだ。記憶にはないが、それが私の体に染みついているのだろう。

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