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トーマス・グラバー』 幕末から明治にかけて、日本の基礎を作ったこの人物、その足跡を見ていこう!

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長崎での観光なら必ずいくのが「グラバー園」である。開国したばかりの日本、その居留地の一つが長崎だった。そのため、多くの外国商人が暮らしていた。

私がこの場所に初めて訪れたのは、高校生のとき。修学旅行で行っている。ただひとつ記憶に残るのがかなりの高台にあり、その眼下には、長崎の港がよく見えたこと!それしか頭には残っていない。

トーマス・グラバーが、日本で訪れたのが21歳のときだという。スコットランド北部の街で生まれたグラバー。郷里で「商工事務員クラーク1」の資格をとる。そして海外である上海を目指す。ここで入社したのが、ジャーディン・マセソン商会だった。はじめ香港に派遣されたが、すぐに日本の担当となる。

仕事は、日本で「お茶、樟脳、角材」の買いつけと、東南アジアの物産である香辛料や雑貨の販売だった。マセソン商会には数年勤めただけで、すぐに独立した。社名は、自分の名前から「グラバー商会」とした。

すこぶる人物は良かったようだ。そのため、つぎつぎに新たな客をつかんだ。薩摩や長州などの西国雄藩。時代は幕末、倒幕の流れで、売るものは兵器や船舶の中古品となった。

*グラバーという人物
当時の資料に、グラバーの人物像を記したものがある。これは英国領事Jモリソンが本国に送ったものだ。「グラバーは日本語に長け、きわめて社交的で、日本人と友好関係を築いている。そして多くの日本人に尊敬されていた」と。

スコットランドといえば、日本での北海道に当たる。その特徴は、実直で社交的なところ。男性は一般的に高身長なのだそうだ。イメージとしては、俳優のショーン・コネリーだろう。意外と細かいことにこだわらないのも、この人たちの気質のようだ。

*坂本龍馬との関係
龍馬を有名にしたのが「薩長同盟」と言われている。それまで犬猿の仲ともいえる間柄。それを結びつけたのが、グラバーから買いいれた兵器だった。この兵器を長州や売り渡したことがその後この両藩を結びつけることになる。

長州は藩幕府側から監視され、動ける状態ではなかった。まず薩摩が兵器を買いいれ、それを亀山社中の龍馬をつかい、長州へ届けさせる。長州は米を龍馬に渡し、それを薩摩へ運び込む。そんな流れだった。

*海外への密航支援
当時の日本、海外へいくことは禁じられていた。見つかれば死罪ともなる重大な犯罪。しかし、薩摩や長州から多くの若者がヨーロッパへの留学をおこなう。これを支援したのがグラバーだった。

長州からは、伊藤博文、井上馨、遠藤謹助など15名。薩摩では、寺田宗則、伍代才助、堀宗次郎ら19名だ。幕府に発覚されれば、グラバーといえども国外退去を命じられたはず。肝も座っていたのであろう。

*グラバー商会倒産
戊辰戦争により、今後大量の兵器や弾薬が売れるとふんだグラバー。しかし、大きな戦いにはならず、在庫の山となる。そこにさらに売掛金回収もままならず、資金繰りに窮してしまう。明治に入ったばかりの1870年の事だった。

*日本初の事業
グラバーは様々なヨーロッパの技術を日本で紹介している。①近代的な機械による石炭採掘(高島炭鉱) ②蒸気機関車、鉄道の実演(大浦海岸通にて) ③船舶の修理Dock (小菅にて) ④造幣機(香港からの輸入) ⑤本場ドイツ流の本格ビール。などなど。

会社を潰したグラバー。これを救ったのが岩崎弥太郎だった。岩崎はグラバーを会社の顧問にする。そこでグラバーが手がけたのがビールだった。今のキリンビールである。そのラベルにある絵柄が「麒麟」。この図案どう見ても、頭が「龍」で、胴が「馬」に見える。つまり龍馬を表しているようだ。岩崎は、龍馬の意思を継ぎ、商社をつくった人物。グラバーの思いがわかるような気がする。

まとめ
グラバーは龍馬より2歳若かったが、この2人には何か共通するものが感じられる。そう、龍馬も海外を目指し、貿易で身を立てようと考えていたことだ。

結果は、その途中で刃に倒れた龍馬。しかしグラバーは、龍馬がやりたかった事業を死ぬまでおこない続けた。そのおかげで、今の日本の繁栄があるといっても過言ではないだろう。

1908年には、外国人で初めて「勲二等旭日重光章」を授与されている。その3年後にグラバーは東京にて73歳で命が絶える。実に50年余にわたる日本滞在だった。

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