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医療漫画の大傑作『ブラックジャック』 この作品が作られた経緯とは何だったのだろう!

#ブラックジャック #手塚治虫
#漫画 #マンガ #劇画  
日本人にとって、漫画はなくてはならないもの!自分の横につねにあるものといって良いだろう。私も小学生の頃には、学校の帰りに少年漫画雑誌を買って、家まで待ちきれなくなり、歩きながら読んでいたものだ。よく事故に合わなかったと、半ば感心するのだが…。

絵巻物の鳥獣戯画にはじまり、江戸期の北斎漫画、そして昭和期の手塚漫画が、日本の漫画界の王道といえる。いまや、市場規模は7000億円。映画と音楽とゲームの産業界を3つたした規模である。考えられないほどの額と言えるのではないか。

その日本を代表する漫画家、手塚治虫について、今回は見ていくこととする。

大阪帝国大学、附属医学専門部の在学中1946年に、漫画家をデビューする。1950年から、つぎつぎにヒット作を手がけていった。リボンの騎士、鉄腕アトム、ジャングル大帝レオ。誰もが、手塚の漫画を楽しみにしていた。いわば日本で一番ヒット作を量産し、もっとも稼いでいた漫画家といえる。

そんな手塚だったが、勢いに陰りが出てくる。1964年に創刊した劇画雑誌ガロの存在が大きかった。この頃から、劇画が今までの漫画を凌駕してくる。白土三平の時代モノや、妖怪モノの水木しげるの作品が脚光をあび、手塚は古いタイプの漫画家とみなされるようになった。

アニメーション事業も不振がつづいていた。1973年に、手塚が経営していた虫プロ商事、そして虫プロダクションも相次いで倒産する。手塚自身、1億5000万円の借金を追うことに…。

手塚も、『1968年から1973年は冬の時代』と話している。今まで築いてきたもの全てが、土台から崩れていった。

このとき、古くから付き合いのある1人の編集者・壁村耐三は、そんな手塚の窮地に、手を差しのべる。もう手塚にヒット作は描けない!だとしたら、オレが最後をみとってやる!そんなつもりで手塚に声をかけた。

少年チャンピオンで、1 話読切りの物語を書いてくれ。それが、もし当たらなければ、これが最後だ!と…。

編集者の壁村は、手塚が医師免許を持っていることを知っていた。手塚は、『僕は医者が本業、漫画家は副業だ』と言いつづけていることを知っていたからだ。

死水を取る!という扱いだった『ブラックジャック』。どうせダメだろうから、4回5回連載して終わりにしよう。編集者はそう思っていたという。だから、その扱いも地味なもので、雑誌の表紙は、ブラックジャックという文字だけの扱いだった。

しかし、この作品が大当たりとなる。連載モノがおおい雑誌漫画。読み切りで、今までにないアウトサイダーとしての外科医の話し。1973年11月の第1話は全く人気がなかったが、回を追うごとに評判をよび、1年後には雑誌チャンピオンでの人気ランク第2位となる。

そこから、10年におよぶ大作となった『ブラックジャック』。手塚は、主人公を劇画的なキャラに仕上げたうえで、医療のさやざまな問題も提示している。

この漫画を読んで、医師を目指した人は多いようだ。多くの漫画家も、手塚の描き方やストーリー作りを学んだ。一方、医師という仕事に魅力を感じた読者が多くいた。

東大教授で感染症のスペシャリスト田中良明 医師。国境なき医師団  日本代表の佐々木俊尚 医師。心臓外科医で、元北海道知事の田中康夫  医師などなど。

日本の漫画界に、偉大な足跡をのこした手塚。社会に対しても、大きな影響を与えている。エンターテイメントに過ぎないとされる漫画というジャンルを、小説や絵画とならぶモノにした功績はじつに大きい。

そして、いまや多くの外貨を日本にもたらしている。日本人にとっては、これは誇りだ。世界中の多くの人に感動を与えている漫画。手塚治虫は、世界のTEZUKAといって良いだろう。

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