アセクシャルかもしれない話

先日、夜にたまたまテレビをつけたら、NHKで「作りたい女と食べたい女」というドラマが流れていた。何も分からず見ていたけれど、なんとなく興味が湧いて、シーズン1の1話から一気に見てみた。以下あらすじ。

【ストーリー】
料理が大好きだが、ひとり暮らしで少食のため、もっとたくさん作りたいと日頃から感じていた野本さん(比嘉愛未)。同じマンションに住む、豪快な食べっぷりの女性・春日さん(西野恵未)との交流が始まり、2人で料理を作って食べることで関係を深めていく。いつしか野本さんは、自身がレズビアンで春日さんへの思いが“恋”だと気づき・・・。新たな友人たちとの関係や、2人の恋の行方を描くシーズン2。

https://www.nhk.jp/p/tsukutabe/ts/5NX1QRN3VM/

ただ料理をすることが好きなだけなのに「料理ができる女はモテる」「料理ができる女性と付き合いたい」「お弁当が作れる女は家庭的」、その一方で、ただ美味しいご飯を心ゆくまで楽しみたいのに「女性は少食なものだ」「女はご飯にがっつくものではない」と、"女性"というフィルターを通して「作る」「食べる」という行為を捉えられることに対して違和感を覚えてきた、「作る女」野本さんと「食べる女」春日さん。ただ作りたい、ただ食べたい、というその思いで共鳴し、料理を通じてお互いを知り、そして自身の"恋"という感情にも気付きを得る、ざっとそんなお話。

シーズン1では、野本さんが自分の感情が恋(のようなもの)であると気づき、レズビアンとしての自覚を持ちます。ただ、恋愛としてその後2人の関係が発展するわけではなく、シーズン1は終わりを迎えます。その後、シーズン2では恋愛としての要素がより出てくるようになります。(まだ放送自体がシーズン2の途中なので、結末は分かりません)

そのシーズン2の初めに、自分の感情やレズビアンとはを知るため、野本さんはレズビアン映画を見るのですが、そこで野本さんは、映画としての感動を得つつも、心のどこかで言葉にできない"モヤモヤ"を感じます。その"モヤモヤ"は、女性同士の性的な場面を見た際に感じたショックで、ただショックというより、違和感的な、やはり"モヤモヤ"というのが近い気がします。そんな"モヤモヤ"を感じる自分に対して、他のレズビアンの人たちと同列にレズビアンを自称していいものか、"ちゃんとしたレズビアン"ではないのではないか、と野本さんは悩みます。

そんな中、SNSを通じて知り合ったセクシャルマイノリティの人とオンラインで交流する機会を得た野本さんは、自身の"モヤモヤ"が間違ったものではないと知ります。その人は、レズビアンかつアセクシャルで、人を好きになるけど性的に惹かれることがない性的指向のため、以前は野本さんと同じ感情を抱いていたと言います。ただ、セクシャリティや自分の感情には何が正しいとか間違ってるとかはなくて、自分の形を見つければいいと助言します。

私はこのドラマを見ながら「恋愛感情」というものについて考えて、正直よく分からないなあと思った。というより、もしかしたらアセクシャルなのかもしれないなあと思い始めてきた。今回恥ずかしながらアセクシャルというものを初めて知って、調べてみて、ああ、私が今まで感じてきたものってこれだったのかもなぁと思った。

私は今まで男性としか付き合ったことがない。そして大して恋愛経験があるわけではない。年齢の割には少ない方だと思う。そして、こちらからの恋愛対象になるのもずっと男性だけだった。と思う。

ただ、私は性的なことに興味がない。必要性も感じないし、なんというか気持ち悪いと思う。私は男の人が好きだ(と思う)けど、男女が付き合ったら、結果的にはそういうことをすることになるのを残念に思っている。恋人が欲しい気持ちはあるけど、プラトニックに生きていきたい。そして、相手からも性的な目で見られたくないし、求めるのは"人として"の好意でしかない。そこに性的な何かを求めないし、むしろ邪魔な存在でさえある。好きな人とは、綺麗な景色を見て綺麗だねと言えればいいし、美味しいご飯を食べておいしいねと笑い合えればいいし、夜はベッドに一緒に入ってただ横に並んで温かさを共有し合えればいい。

思い返すと昔からそうだった。友達と話をしていても、恋愛の話はまだできるけど、性的な話題になると急に面白くなくなる。というより、もうこの話はやめたい、話したくないと思う。話を聞く分にはまだ黙ってやり過ごせばいいけど、自分が話すのは絶対に嫌だった。そもそも恋愛の話自体におもしろみを感じなかった。

初めて彼氏ができて、彼氏の家に遊びに行った時も、一緒にご飯だけ作って食べて何もせず帰った。私はそれがよかった。でも、彼氏の友人は、彼女を家に呼んだのに何もしなかった彼氏を笑った。私が帰りたかっただけなのに。気まずくて、これ以上彼氏の期待に応えられないと思って別れた。その後にできた彼氏も同じだった。いつも同じ繰り返しだ。夜だけ遊んだ人もいたけど、何も楽しくなかった。人間の欲望って気持ち悪いなと思った。早く帰りたかった。

片想いでも同じだった。好きになって、付き合いたいとは思うけど、付き合えたとしても、いわゆる普通の恋愛のような性的な関係を求めてるわけではない。好きになったのは私からなのに、性的な関係を求めたら拒まれた、なんて相手からしたら意味が分からないだろうと思う。だから、好きだと言いたいけど、その後にある関係を考えると付き合えない気がする。結果的に、片想いはいつも片想いのまま終わった。相手から好きになられた場合でも同じ。いい人だなと思っても、性的な関係を求められた時に応えられる気がしなくて、デートは複数回しても、付き合うことなく告白を断ることもあった。

そこからもう自分は恋愛向きではないと思って、まともに恋愛をするのはやめた。1人で過ごす時間が大事だし、1人でいれば何も気にしなくていい。そんな気楽さに頼るようになった。でも、好きな人の存在はずっと求めていた。好きな人とこんなところに行けたら楽しいだろうなぁ、おいしいご飯を一緒に食べたいなぁ、仕事や日常の他愛無い話をしたいなぁ、そんなことを考えることは多かった。でも、それ以上は求めていない。

人を好きになれないんです。そんなことを人に打ち明けたこともあった。正確には、好きになれないのではなく、多数派の人と同じような恋愛感情を持てない、というのが近い。そう言うと、まだ本気の恋を知らないんだよとか、自分に自信がないんだよとか、そんなことを言われてきた。そうかもしれない。でも何かが違う。本気で人を好きになったことはある。自分に自信がないのは確かにそうかもしれないけど、でも全てに自信がないわけではないし、少なくとも救いようがないほどのネガティブ人間ではない。でもそんなことを言われると、ああ自分はまだ恋愛を知らないだけなんだ、経験値が少ないんだなと余計に悲しくなった。

人として好きになりたいし、好きになられたい。友人にそうポロッと呟いた時も「大人だね」と言われた。大人だとそう思うものなのだろうか。私は別にそんな大人びた考えを持ってるわけではなくて、ただそういう考えをする人間なだけだ。成熟度合いの話ではないと思う。でも、他の人から見たらそう思われるんだと感じて、結局恋愛向きではないことを改めて痛感した。

こんな考えだから、周囲との不一致を覚えることが多かった。だから余計に、性的な欲求は抜きに自分をただ理解してくれるだけの存在を求めてきたし、それと同時に、1人でいるのが一番合っていると思ってきた。抜けられない負のループに陥っていた。

今回、アセクシャルなのかもしれないと気付きを得たけど、それでも結局のところ、やはりまだよく分からない。というのも、他人との接触を全く求めていないかというと、そうではないから。手繋いだり、腕を組んだりするの嫌いじゃない。軽いキスぐらいはできるけど、生身の体を感じるのは気持ち悪いなあと思う、ただ、それは可愛い犬や猫を見たら、ギューってしたり、ほっぺたスリスリしたりはするけど、それ以上することは決してない、そんなのと同じような感じ。それは相手が動物だから当然と言ったらそれは当然なんだけど、私の場合はそれが人間でも動物でも同じ。まあ最終的には自認の問題だから好きにすればいいとは思う。

そんなこんなで自分のことはまだ整理しきれていないけど、少なくとも他人に対しては優しく接しようと思う。いろんな人がいるし、それだけいろんな考え方がある。自身をアセクシャルであると強く自認されてる人が私のこのnoteを読んだら、ドラマに影響されたポッと出の自称女に見えるかもしれないけど、他人のことは適当に放ってほくか、放っておけないなら優しくしてください。(?)

それにしても、結婚願望は一応(たぶん)あるけど、性的な関係は求めないって、周りから見たら意味不明なんだろうなぁ。それ家庭築く気ある?ってなるもんね。おっさんずラブで言うオムツパートナー的な?私は別にオムツ交換してもらう気なんてないけど。体の接触も全てNGって訳でもないし。グラデーションがあるにしても、グラデーションの真ん中を彷徨ってるって感じがして気持ち悪いなあ。そういえば私おっさんずラブめちゃくちゃ好きなんですけど、同性愛モノのドラマ見がち。あんまり性的描写がないものに限るけど。男女のものって性的描写ほぼほぼ出てくるじゃないですか。だから今まであんまり恋愛ドラマって見てこなかったかも。


おわり

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