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ある年上ソーダとの対話―大人の聾・聴きょうだいの関係がゴタゴタするのはなぜだろう―

昨年、あるソーダ(聞こえるきょうだい SODA)が知人のつながりをたどって私に連絡してこられ、お話を伺う機会があった。お名前は仮にAさんとしよう。

ひとりで抱えるには重すぎた悩み

私よりだいぶ上の世代。男尊女卑・家父長制の価値観が強く残る家庭で、親は長子である聾きょうだいにはとことん甘く、Aさんには厳しく接したらしい。「将来聞こえない上の子の面倒を見させるために産んだ」という、弟妹きょうだい児(=障害児者のきょうだい)にとって最低最悪の暴言を親からぶつけられてしまったAさんは、現代なら通報されるレベルの虐待を体験してきたそうだ。親の精神状態がそこまで追い詰められていた背景には上の子の聴覚障害以外の要因もあったかもしれないが、両親とも他界した今となってはよくわからない。

聾きょうだいは成人してから手話で話すようになったけれど、同居していた子どもの頃は手話禁止の時代だったから、Aさんは口話しかできない。私の周りでもそういうソーダは多いと思う。

きょうだい同士でお互いの思いを語ろうにも、何十年も続いたコミュニケーション不全が邪魔をする。通訳を呼ぶだけで解決するレベルではない。聾も聴もきょうだいそれぞれに溜め込んできた不満がたくさんあり、そこから疑心暗鬼が生まれる。さらにちょっとした言葉遣いや習慣の違い、口話・筆談による誤解、親の介護や死後手続きの負担の不均衡、経済的格差などが積み重なって、両親の他界した今も、Aさんと聾きょうだいは互いに疑り合い、反発し合っている。

ソーダにもガス抜きが必要

Aさんには、こういう悩みを話して理解してもらえる相手がいなかったそうだ。それが状況をさらに悪化させたと思われる。もっと若いうちから、同年代の似た背景をもつソーダ同士で愚痴を言い合い、ガス抜きや情報交換ができていたら、親の死後にきょうだいが絶縁するまでに至らなかったかも。

でもソーダ同士のつながりは希薄だ。子どもの頃にはろう学校関係で家族ぐるみの付き合いがあったとしても、成長するにつれ、親同士・聞こえない同士の交流になり、きょうだいは呼ばれなくなる。所詮はおまけの存在だったんだよね。

当事者の団体に参加すれば…と言うのは簡単。でも交流を目的にする場で悩みを解決するのは難しいし、受け止める側の負担も大きい。私もAさんとの数時間のやり取りだけで気持ちを大きく揺さぶられ、ストレスで消耗してしまった。

ソーダのせいじゃないけれど

きょうだい関係は一生続く――それは介護とか相続のような具体的な問題だけじゃなく、幼少期に培った信頼とか愛着のような人間関係の根本的なレベルで。

聴覚障害の場合は、その関係が言語と文化という見えにくい要素によって揺らぎやすいのかもしれない。特に(Aさんや私もそうだが)きょうだいの言語が途中で日本語(口話)から手話メインに変わり、ろうコミュニティの人になった場合は悩みも複雑だ。

口話やインテという教育方針を選んだのは、ソーダではなく親であり、その時代のろう・難聴児教育だ。なのに手話が通じないことも含めて、かつて親に向けられていた怒り――過去の出来事や聴者中心社会に対する不満も含めて――を、親亡き今は自分に向けられている気がする、とAさんは言う。

甘えと紙一重のような、家族ならではの感情のぶつけ合いは想像がつく。親が相手なら許容できたことが、きょうだいでは許せないというのもあるだろう。聴者のきょうだい同士でもありがちだけど、そこに「聞こえる・聞こえない」が絡んだときの微妙な気持ち――責任感や罪悪感だったり、嫉妬もあったり――を肌感覚で理解してもらえるのは、ソーダやコーダ、あるいは聞こえる配偶者かもしれない。

見方がズレる原因

ろう文化やコミュニティを知る機会がない限り、ソーダも多くの親と同じように「障害があるから可哀想・家族が助けてあげるべき」という医学モデルの見方から抜け出せない。本人に代わって先回りしてやってあげるのは、優しさに見せかけた差別に他ならないのだけれど、何も知らなければ「自分はこんなに尽くしたのに、聾きょうだいはなぜ不満なのだろう」と思うに違いない。

実際にAさんも、自分が果たすべき役割と信じて(幼少期から親にそう言い聞かされ続けて)親の介護の手配から死後手続きまで、ほとんどひとりで担ってこられたが、聾きょうだいがそれに感謝もせず、ねぎらいの一言もなく遺産だけを当然のように受け取ったことに強い不満を持っていた。一方の聾きょうだいは、なんの相談もされずに勝手に決められたと反発している。

私が数年前から手話教室に通い始めたと言ったら、Aさんは本当に驚いていた。親も亡くなって抑圧から解放され、やっと自分の生活を優先できるようになったのに、聾きょうだいのために時間とお金をかけて手話を勉強するなんて考えられない、これ以上尽くすのはまっぴらごめんだ、とAさんは言う。Aさんの経験を考えれば当然のお気持ちで、誰にも責めることはできないだろう。

今の子どもソーダは大丈夫?

Aさんのお悩みを「昔はそうだったのね」と割り切ることは簡単だけど、本当に昔話だろうか。現代の子どもソーダたちは大丈夫かな。

私は、大人になった聾・聴のきょうだい関係で問題が起きやすいのは、聴力やコミュニケーション手段のせいだけじゃないと思ってる。

「うちの子たちは仲がいいから大丈夫」と思っていても、聾きょうだい(ろうでも難聴でも)が成長して親の庇護から離れたとき、現実社会で受ける差別や抑圧は子ども時代とは比べ物にならないし、コミュニティや文化の違いも顕著になる。

それでもきょうだいの気安さで、つい子どもの頃の感覚のまま接してしまうことで、お互いに期待を裏切られたり、傷ついたり、怒ったりするんじゃないかな。そのあげく、他人相手なら我慢して言わない気持ちを、等価で十分に伝わらない手段(口話や筆談)でぶつけてしまって、関係がこじれるような気がする。

おわりに

結論の出ないことをダラダラ書いてしまったけれど、大人になった聾・聴きょうだいの関係に絡む要素はたくさんあると思う。

  • 親自身の障害に対する態度

  • きょうだい児の心情への理解 (※資料1)

  • 聴覚障害やろう文化、ろう難聴者のコミュニケーションに関する理解

  • 大人になってからの環境変化を知ること(親も聾・聴きょうだいも)

  • ソーダが手話を学べる場(福祉目線ではない学習機会が必要)

  • カウンセリングなどプロのサポートを得ること

  • 手話通訳や文字情報などは話す側の責任でもあると知ること

  • 対話をあきらめないこと

  • お互いの尊重

…と書き出してはみたものの、これは個人の努力だけでできることではないと思う。というわけで、私は私のできることとして、ソーダの気持ちを知ってもらうための小さな情報発信を続けたい(資料2)。

《おことわり》プライバシーに配慮して設定の一部を改変しています。Aさんと話した私の感想であり、Aさんご本人の解釈とは異なる可能性があります。

▶資料1 西村辨作氏 講演録

▶資料2 Sibkoto掲載記事


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