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情報保障への気づきをオリパラで終わらせないために ――ユニバーサルの基準はどこに置くべきか

多くの反対意見の中、コロナ禍で開催されたオリンピックとパラリンピック。競技そのものもさることながら放送の情報保障をめぐっていろいろな試みが行われ、私の周囲でも開閉会式の内容や手話通訳・字幕についてさまざまな反応があった。たくさんの人が「手話の人」を初めて意識するようになったのはオリンピック・パラリンピックならではの効果だと思う。

本稿ではそうした気づきを一時的なお祭りで終わらせないために、キコエナイきょうだいをもつ私の視点から、情報保障について気づいたことを書いておきたい。

なぜ半泣きで喜んだのか

実はEテレで放送された手話通訳(ろう通訳)付きのオリンピック閉会式中継を、私は友人とLINEでやり取りしながらほとんど半泣きで見た。開会式では忘れられていた手話通訳が、ろう通訳という望ましい形で付いたことが自分でも思った以上にうれしかったのだ。

私はキコエナイ妹と一緒に育ったキコエル姉である。私と同じような立場の人をSibling of Deaf (Adults/Children)を略してSODAソーダともいい、閉会式をLINE越しに一緒に見て半泣きしていた友人も同じくソーダである。

聴覚障害を示す表現は医学的・文化的にさまざま――聴覚障害のある・聴覚障害をもつ・聴覚障害者・聴覚障がい者・ろう者・聾の・デフ・聞こえない・聴こえない・耳の不自由な・難聴者・難聴の――あり、どの言葉を選ぶかは本人のアイデンティティにも関わるため、本稿ではあえて「キコエナイ」とカタカナで表記することにした。

手話ができると誤解されるのは「ソーダあるある」なのだが、当時の難聴児教育では手話を教えず、補聴器を付けて音声で話したり相手の口を読み取るように指導するのが一般的だった。したがってキコエル姉の私も手話は知らずに育ち、きちんと習い始めたのはつい最近のことだ。

私は家族の中でも妹に伝わりやすく話すのが得意だったし、妹の独特な発音も一番よく理解できたと思う。それでも、学生時代に手話を獲得した妹と《完全に・お互いに・何のコミュニケーションバリアも感じずに・深く》話ができたことはほとんど無い。

私がオリンピック閉会式の手話通訳付き放送に自分で驚くほど感激し「こういうの家族で一緒に見たかった」とつぶやいたのには、このように家族なのに通じない・伝わらない経験をしてきたことが背景にあったと思う。

ちなみに半泣きだったキコエル姉に対して、キコエナイ妹から翌朝届いたのは主に閉会式の内容についての感想だった。「あの青い大きい人は有名なの?」とか「最後の大竹しのぶのはよくわからなかった」とか。

ん?肩すかし?と思ったものの、もし手話通訳がなかったら内容についての話はできなかったかもしれない。そもそも手話通訳がついたことに感激する事態がおかしいわけで、これがあたりまえのやりとりなのだと気づいてじんわりうれしかった。

初めて意識した情報保障

さきほどから使っている「情報保障」、これは視覚障害や聴覚障害など情報を得るのに支障がある人に対して代替手段を使って情報を伝えることを指す言葉である。ここでは主に聴覚障害の話なので、手話や字幕、要約筆記などをイメージしていただきたい。

私(現在50代半ば)が子どもの頃のテレビは最も身近な娯楽だった。居間に鎮座するブラウン管テレビは家族みんなで見るもので、人気の番組や歌手の振り付けを知らないと学校での話題についていけないこともあった。ビデオが普及する前だから皆がリアルタイムで見ていたわけだ。

わが家が少し違っていたのは「アニメ番組は口の動きが読み取れないから、妹がいるときはあまり見るな」と言われていたことだ。『サザエさん』にチャンネルを合わせると母がいい顔をしなかった記憶がある。でも実際のところ、子ども向け番組はアニメが多かったので、母の顔色を気にしつつアニメ番組もよく見ていた。キコエナイ妹には面白くなかったかもしれないし、キコエル私にも小さな罪悪感が積み重なっていたと思う。

ちなみに妹は相撲中継が好きだった。これは見れば勝敗がわかるし、しこ名や所属部屋、出身地、過去の勝敗、決まり手など、必要な情報は画面に表示されていた。いま思えば相撲中継には聞こえなくても楽しめる工夫があったのだとわかる。

実はあった!一緒に楽しめる番組

子どもの頃に、私と妹が一緒に笑える人気番組があった。『8時だヨ!全員集合』である。ドリフターズのお笑いは、大掛かりなセットの中で登場人物たちが動き回り、舞台設定もどんな人物かも見ただけでわかるし、セリフよりも身体の動きで伝わる部分が多くて本当に面白かった。

子どもたちが思わず「シムラ!後ろ!後ろ!」とテレビに向かって叫んでしまう場面は聞こえなくても理解できるし、加トちゃんの「ちょっとだけよ♪」も音楽と同時に照明が変化する。ひげダンスのマイムや生放送の舞台に本物の自動車が突っ込んでくるような度肝を抜く演出に言葉は不要だった。

もちろんセリフのすべてが伝わったわけではないが、キコエナイ妹とキコエル私が遠慮せず同じタイミングで笑うことができたのは貴重な経験だったと思う。

字幕の登場で問題は解決したのか

実家のテレビに字幕が導入されたのは1980年代の半ばだろうか。比較的早い方だと思う。妹のためだからと、親が高価な文字多重放送の機器を取り付けたのだ。

しかし当初字幕を配信していたのは時代劇など年配層向けがほとんどで、妹にはたいして面白くなかったに違いない。私は時代劇が好きで『独眼竜政宗』の名セリフ「キョウエツシゴクニゾンジタテマツリマス」が「恐悦至極に存じ奉ります」と漢字で表示されておおっ!こう書くのか!と思ったのをよく覚えている。

現在はリモコンに字幕ボタンがあたりまえに付いているし、ジャンルを問わず字幕付きの番組が増えている。字幕が表示されるコマーシャルもある。手話通訳についてはここでは触れないが、情報保障に関わる新しい技術も出てきている。

しかし字幕や手話通訳といった情報保障を拡充してスピードや精度を上げていけば、すべてが解決するのだろうか

パラリンピック開会式で気づいた別の課題

パラリンピックの開会式は少し冷静な気持ちで見ることができた。字幕の遅れを回避するために映像を遅らせる方法で、映像と字幕のタイムラグはかなり減っていた。その一方で手話通訳が映像に先行したり、早口に間に合わないこともあり、すべてをぴったり合わせるのは難しいのだなと観察していた。

しかし私が一番気になったのは実況アナウンスのスピードと量である。特に選手入場のシーンでは、国名や場所、旗手や代表的選手のフルネームや参加競技、パラリンピック参加に至った経緯やちょっとしたエピソードなどを、男女2人のアナウンサーが早口でどんどんしゃべる。時にはキャンプ地の町名のマチとチョウを読み間違えたと後から訂正が入り、「△△選手がいましたねぇ」などと画面に映る選手を紹介したり「鮮やかな衣装ですね」など感想も挟み込まれていた。

しゃべりすぎが気になったのは、視覚障害者向けの解説放送を聞いていたせいでもある。私は2ヵ国語放送を聞くためにいつも副音声に設定していて成り行きで解説を聞いたのだが、実況アナウンスの語りの合い間にまるで細い紙片をすべりこませるように視覚情報が追加されていくことに驚嘆した。

ユニフォームの色、宙に浮かんだ風船の色や形、車いすの車輪に描かれた模様など、次々に情報が補足されていたが、メインの実況が話しつづけるのでその息継ぎの間に解説を入れ込むような形になり、きわどいタイミングで音声が重なることもあって、十分な解説ができたのだろうかと心配になった。

情報保障の向こう側への意識を

実況を担当するアナウンサーは情報保障についてどの程度意識していたのだろうか。話された言葉を字幕や手話に変換したり視覚情報を解説したりする時間やプロセス、情報保障を必要とする人たちやその言語環境について予備知識があれば、あそこまでハイスピードで話さなかったのではないか。

個人的には選手の事故・病気の詳しい状況を開会式で紹介する必要はないと感じたし、マチ・チョウの読み違い程度なら別途サイトで訂正すればいいと思った。ただ実況に何を求めるかにはいろいろな考えがあるのだろう。

実は普段の放送でも情報保障への無理解を感じることがある。
NHK朝のニュース終了間際の「朝ドラ送り」をご存知だろうか?キャスターが8時から放送される連続ドラマについてラスト15秒程度の短い秒数内に早口でしゃべり、番組終了とほぼ同時に語り終えて一同が笑いながら終わるのが恒例になっている。そこでのトークが連続ドラマの後の番組で「朝ドラ受け」として話題になることもある。

しかしこうした終了間際のトークにはほとんど字幕が付いていない。間に合わないとわかっているので最初から出てこないことが多いのだ。

判断の機会を奪うのは親切ではなく傲慢

番組終了時のちょっとした雑談は「たいしたことじゃない」「伝えなくても問題ない」「なんでもない」から字幕は不要だと思っていないだろうか?

実はいま挙げたのはキコエナイ人たちが言われて大変不愉快に感じる言葉だという。たいしたことかどうか、伝える必要があるかどうかはキコエル人が決めてはいけない。キコエナイ人がきちんと情報を得たうえで「くだらない」「たいしたことない」「つまらない」と感じて笑ったり怒ったりするのが正解なのだ。

懺悔するが、キコエナイ妹の身近にいて子どもの頃から周囲の音や声を説明し仲介するのを自分の役割だと思ってきた私は、この不愉快な言葉をこれまでの人生で数えきれないほど言ってきた

たとえば親戚の集まり――大勢のキコエル人が次々と妹に話しかけつつ返事をする前に別の話に移ってしまったり、身内をけなして相手を上げたりするややこしい社交上の会話が飛び交う場所は、キコエナイ妹だけでなくキコエル私にとってもうんざりする場所だった。

仲介しきれない・伝えられないストレスと義務感で疲弊し、つい「何でもない」「あとで」と言ってしまったのだ。もちろん子どもだった私がひとりで背負うべき責任ではないけれど、ごめんなさい。

キコエル人は聞いているから「たいしたことじゃない」と判断できるのであって、その判断する機会を奪うのは親切ではなく傲慢だということは肝に銘じておかなくてはいけない。勝手に字幕の要・不要を判断するのは同じことだと思う。

しゃべりすぎの音声・にぎやかな画面は誰のため?

最近はさきほどの「朝ドラ送り」のように時間ギリギリまでしゃべる番組が増えた気がする。複数のゲストが出演して次々に会話のキャッチボールをするスタイルや、大勢がワアワアと同時に話し出す場面も多い。

画面上もにぎやかである。たとえばあるワイドショーでは、時刻・番組ロゴ・天気・気温・星占い・番組QRコード・ニュースのヘッドライン・交通情報・緊急事態宣言情報・出演者の名前と紹介文・出演者の反応を映すワイプ画面・フリップなどの視覚情報が次々と表示され、字幕はそれらに重なってしまうことも多い。

テレビ放送での小さな情報格差はたくさんある。キコエル私はエンディングの音楽がかすかに流れ始めて音が大きくなればそろそろ番組が終わるとわかる。チャイムが鳴ってコマーシャルに入るのを知らせる番組もあるし、速報の警告音はよそ見をしていても気がつく。

しゃべりすぎの音声もにぎやかな画面も、番組を制作する側に情報保障を受ける側への意識が欠けているのだと思う。単純にキコエル人に基準を置いた番組を作って情報保障さえ付ければユニバーサルになる、そんなふうに考えているのではないか。

[キコエル人が音声を消して見る画面]≠[キコエナイ人が見る画面]

こんなふうに情報保障について書いてはいるものの、私にできるのは情報保障の不備によって抜け落ちている情報を指摘することだけである。番組や情報保障の本当の意味での評価は受け手であるキコエナイ当事者にしてもらわなければいけない

それは[キコエル私が試しに音声を消して見る画面]と[キコエナイ人が見る画面]は違うと思うからだ。個人差はあるけれど、キコエナイ人、特に手話で生きているろう者は圧倒的に「目の人」だ。映像の細かいところにまで気がつくし、ちょっとした動きや視線の移動にも敏感だと思う。だから物理的に同じ画面を見たとしても、そこから何を読み取りどう感じるかはキコエル私とキコエナイ人では異なるはずだ。

私は「試しに」音声を消して見てみるだけで、普段は音声を聞きながら興味あるニュースにだけ目を向けることができるキコエル人なのだ。キコエナイ人は見なければ情報が入ってこない。だからこそ、たとえ理解があるつもり、味方でいるつもりでも、キコエル私が代弁者になってはいけないと思う。

ユニバーサルの基準はどこにあるか

実は以前参加したキコエナイ人・キコエル人共同のプロジェクトで、手話動画に入っていた雑音をめぐって驚いたことがある。手話動画の背景にわりと大きな生活音が入っているので消した方がいいという話になったのだが、「キコエル人にはボリュームを調整して不快な音を聞かない選択肢があるのに、なぜ消す必要があるのか」という意見があって目からうろこが落ちた。

まったくその通りだと思う。キコエル私からすれば雑音が入っているから消そう、で終わる話だったのだが、それがとても傲慢な考え方だと知らされたのだ。テレビ画面に置き換えてみればわかる。キコエナイ人は雑多な視覚情報をごちゃごちゃと見せられ、その中から必要な情報を選んで見ている。音声を消すボリュームのように不要な映像を消すスイッチはないのだ。

この雑音についてのやりとりは、どんなに理解者であるつもりでも、私の基準がキコエル人の側にあることを教えてくれた。もちろん私はキコエル人なのでそれが悪いとは思わない。しかしキコエル・キコエナイに関することを考え、発信するときの目安として常に意識しておきたいと思う。

「障害のある方のために」施す情報保障から当事者が制作・評価するコンテンツへ

キコエナイ妹と育った子ども時代から今回のオリンピック・パラリンピックの放送まで、テレビの情報保障を通じて気がついたことを書いてみたが、私の理想は前出の『8時だヨ!全員集合』のように家族が一緒に見て自然に笑える番組である。字幕もなく情報保障なんて考えもしなかった時代になぜ妹と一緒に楽しめたのか。それはこの番組にはキコエル・キコエナイに関係なく見るだけで伝わる情報が多かったからだと思う。

動画配信などのメディアが増えて、若者はあまりテレビを見ないそうだ。自分の見たいものを選択する時代において、これからは「障害のある方のために」おまけで情報保障を付けたかどうかよりも、番組そのものがユニバーサルかどうかを評価すべきなのかもしれない。

そのような番組を制作し評価する場には、ぜひ多くのキコエナイ当事者に(もちろん他の障害当事者にも)入っていただきたい。しゃべりすぎず、にぎやかすぎず、ニーズを勝手に判断せず、そしてキコエル・キコエナイきょうだいたちが家族と一緒に笑える番組を期待したいと思う。


【関連情報はこちら】

◆Sibkotoシブコト 障害者のきょうだいのためのサイト
特集記事『聞こえないきょうだいと育つということ ―聞こえるきょうだい=SODAソーダが考える「親あるうちに」―』
https://sibkoto.org/articles/detail/40

◆聞こえないきょうだいをもつSODAソーダの会
https://soda-siblings.jimdofree.com/

◆NPO法人インフォメーションギャップバスター
https://www.infogapbuster.org/

◆ろうなび-ろう者が選んだろう・難聴に関する学術情報ポータルサイト
『ディナーテーブル症候群―家族団らんに参加できないろう者の経験をもとにした現象学的研究―』
https://sites.google.com/view/rounabi/dinnertable

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