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序のその2 自分から大事な感覚を鈍らせているので

pixabayのcarloyuenさんの写真に文字を乗せたもの

序 続き

 わたし自身がこう、書きながら、自分を見失ってゆくときがあることを、理解して、覚えていなければなりません。
 ここは、複雑な話で、人は生きていて確信を得たとき、これから取りかかることが何かの証明になるとか、自分や周囲にとって大変喜ばしいことになると確信の持てることが起こったとき、このときはとても幸せで、自分を信じることが出来るでしょう。

 希望的観測を決めつけて確信に持って行って、安易に自分を信頼し切ってしまえることは、ある意味幸せでしょうが、わたしは自分に対しては、勧めたくありません。
 これをすると盲目的になって、結果的には自分も他人も心からは信用出来ない結果を迎えると、これはうっすらわかっているでしょう。

 そうならないには、勿論、普段から本当の自分を信じられるのが良い。
 けど、何が難しいかというと、折角確信の持てるまでのことが出来る自分に辿り着いても、次の瞬間からあとは、確信から遠ざかってゆくことが続き、信じられるものが欲しくて情報を見て、自分で判断せずに多い意見に従うか、強い意見に従ってみて、状況を他人事のように思うようになって、確信からは程遠い力の人間であると自分を思い込むようになって、数年、数十年、もしかすると死んでしまうまで、わからないまま、もやのかかったようなすっきりしない自分になって、気付かないで生きてしまう。

 正にわたしがそうであるので、雲間を晴らす術を身につけて、一瞬だけでもそれが出来る今、隙を見計らって、どうやっているのかを書き留めようとしているのです。

 確信の持てる時間はある。
 そのような行動と、思考と言動と感覚を持っている。
 この文面を見て、頭に血が昇って言い過ぎているのだと疑いながら見る心にもなるだろうけど、本当はそのように出来るのに、普段は出来ないように自分からなりに行っているということが多いと言っているのです。
 見れば比較的早く戻って来られるから、書き留めている。折角気付いたことも忘れてしまうから。
 忘れて、血迷うとこれを見るのも忘れるでしょうが、見れば そうだ。そうだった。と思うに違いないのです。 

序文終わり

難しいです……。