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最初には善悪ではなくて感覚

pixabayのMimzyさんの写真に文字を乗せたもの

 最初には感覚です。
 善悪ではなくて、感覚です。
 ここまでの経験から思うに、人は実は殆ど善悪での判断が正確ではありません。
 倫理が完成しても、利か快楽がなければその通りには動きたくないものです。
 どちらかと言えば、好き嫌いが先に来て、好きなものを正しいと思い、嫌いなものを悪いと思い、そのために言葉を尽くしたりもするし、気が変わることもあります。
 好ましい感覚。本当の好ましい感覚。わたしは自分の本当に好ましい感覚というものを、これもよく追求していなかったでしょう。嫌悪感というものについても同様ですよ。
 ですからまともに判断できている気がしない。
 それで人やお天気に振り回されているような気がして落ち着かないというのは、そう感じている部分においては、当に正解を出している。
 では、落ち着くには、しっかり判断をするには、どうするか。
 自分が瞬間瞬間に、どういう感覚がしているのかを、いちいち掴まえるように、鋭くなることです。
 これで全てでは勿論ないけれど、随分振り回されなくなります。
 正しいことだと思い込んで人に強要する必要はありません。寧ろこれが楽しくて趣味的になるくらいだから、次の瞬間には何を感じるだろうかと楽しみにしたら良いと思う。

 そして、優しさが損なわれるのではないかと心配になることがあるのではないかと思うけれど、そんな心配は必要ありません。
 感覚が鋭ければ自分の危機感は近くの危機感で、自分の安心感は近くの安心感だから、本当の感覚は、自分だけの役に立つものではありません。
 感覚が鋭いのと、過剰に感じようとしているだけは、取り違えないように。感覚は楽しいから、過剰に感じたくなって、自分でも自分を騙して、目的のために磨けなくなります。

(この感覚の話には続きがあります。)

難しいです……。