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ACIMはオレをどこへ連れて行こうというんだ?

※ACIM = A Course in Miracles = 奇跡講座/奇跡のコース

一日数ページから、調子がよければ10ページ程度は読み進めている「テキスト」ですが、読みながらも時々思うことがあるのです。それは、

「自我(エゴ)を喪失したあとのオレは一体何ものなのか?」
「聖霊なるものがかならず一緒にいるそうだけど、どうすれば対話できるようになるのか」
「聖霊と対話できたとして、この存在
(あえて性差を消した表現をしています)はオレをどこへ、どういう境地へ導いていこうというのか」

十数年前にNLP(神経言語プログラミング)を学んでいた時期があり、その頃からスピリチュアリティに傾倒(開眼?)し始めたのですが、その当初にACIM関連書籍は何冊か読んでいるのですよ。マリアン・ウィリアムソンとか、ジェラルド(ジェリー)・G・ジャンポルスキー博士の著作とか。しかし、今にして思えば「字面を追うだけで精一杯だったな」と思えます。
その流れで、「アティテューディナル・ヒーリング・ジャパン」のワークショップにも参加したことがあります。

その後は「神との対話」と「引き寄せ」に傾倒していく(ということは、当然「ザ・シークレット」は観ています)のですが、経済的に困窮感を感じると「引き寄せ系」の本(今は、パム・グラウトの本が3冊、バシャールと本田健の対談本など、合わせて数冊)を読み、それ以上に生き方とか存在感とかに疑問を感じたときは「神対」を読み返す日々でした。
自分としては、「神対」と「引き寄せ」、その後得た「ノンデュアリティ(非二元性)」の考えがここ最近の「ブーム」だったわけです。

2003年頃の最初の「鬱だ氏のう」以降、2010年末に東京を離れるまでの間は、思い立ったことは、時間とお金の許す限り、何でもしていた気がしますね(東京に住んでてありがたかったのは、そうしたイベントやセミナーなどが頻繁に開かれていたことです)。
本棚は瞬く間にスピリチュアルや心理学系の本で埋まっていきましたが、2019年現在、その殆どはもう私の手元にありません。理解できなかったか、会得できなかったか、そもそも馴染めなかったか。立ち返る場所が大体定まったから、もう手元になくてもいいでしょということなのか。あとは、本当に必要になったら(このACIMがそうだったように!)また手に取ることになるだろうと思えるようになったことも大きかったかもしれません。

この十数年の自己探求、あるいは、スピリチュアル迷い道。
結局のところ、問答はこういうところに落ち着きます。

問「世界はひとつの物質でつながっており、その意味ではひとつであるとおっしゃる。しかし、自分たちが見ている世界には他人がおり様々な物質がいる。全然ひとつじゃないよね。お互いに問題も起こしてるよね。これってどういうことなの?」
答「例えば『神との対話』では『神はそれぞれ数あまたの魂に自由を与え、それぞれの可能性を追求させている。それぞれの魂が見ているものは同じではない。魂によって誰がいるか何がいるかどう見えるかどう感じるかは全然違う。なぜならば、あり得るすべてのバリエーションを魂自身が創造しているからだ。よって、違う魂同士が違う価値観や正義感を持てば、そこには衝突も起こる。でもそれらは、前世というか生まれてくる前の非物質界において互いに合意したシナリオなのだ......』という解釈になる」(ただしこれは、正確には「神対シリーズ」を何度も読んだ私の現時点での答えとする方が誠実でしょう)

そもそも、既存の宗教を含むスピリチュアリティをさんざかじってきたはずのニール(・ドナルド・ウォルシュ)による「なんでオレは今この体たらくなんだ!神様教えてくれよ!」という殴り書きから「神対」はスタートしていますので、まだ「神対」の方が現実世界に近く、基本は「現実の問題をどうすればいいんだ!」の連続です。
個々の魂(人間)が抱えている喜怒哀楽やそれらを引き起こす出来事は「シナリオ」ではあるものの、それは様々な手段(エゴを捨て、愛を選ぶ、心の闇に光を当てる、など)で変更可能だと言っています。要はどうなりたいのか、そのためにどうありたいのか、それを選ぶ自由を神(この世の全てに存在するもの)は与えていると。自分の選択権をうまく使ってほしいし、他者がよき選択をできるように助けてやってほしいと。
奇しくも私と誕生日が同じ(9月10日;勿論生年は違います)ニールが果たそうとしているのは、「神と現実の人間社会のパイプ役となり、人間社会が少しでもよくなるようなインスピレーションを提示するメッセンジャーであること」であるように思います。

ACIMの世界観も「世界はひとつである。神もキリストも聖霊もあなたも同じである。その世界こそが平和であり、共有されるのは愛である」という前提からスタートしています。何だか、ノンデュアリティの人たちがいうこと書くことと似ている気がします(が、彼ら彼女らは、自己/自我の喪失という実体験を経ている分、それを経験していない我々には通じ合いにくい部分もあるように思います)。
が、やはり現実として、自分という魂には他人が見えているし、仲良くもなれば喧嘩もする。それどころか殺し合いまでする。
それを生んでいる大元は、それぞれの魂に巣くう「怖れと罪悪感」なのだと。それを手放していけば、いや、怖れや罪悪感そのものに光(意識)を向ければそれらは消えていくのだから、それを繰り返せばいいと......現時点(テキスト 第13章の途中まで読了)の私の理解ではこの程度です。

総じて、ACIMには「神対」には残されている「自己決定権」がないか稀薄のように感じられます。「(聖霊に従い助けを借りて)アンタを狂わせてるものと向き合って無力化し、本来持っている魂を輝かせれば、自ずと行くべきところ、平和と愛の世界に行くから、安心しなさい」と言っているように、今の時点では感じています。

この先の記述で、個々の人間(魂)が「現実」と信じて生きている世界の中で、何をすべきかすべきでないか、誰を愛するべきか避けるべきか、など、現実(と思い込んでいる)の世界における選択権までは踏み込んでいないのでしょうか。自我(エゴ)を手放し、怖れと罪悪感の代わりに愛を基準にすれば、自ずと選択は変わるでしょと言いたいのかもしれません(そういえば「神対」にも、心がけるべきものとして「愛なら何をするだろうか」というのがありましたね)。

現実的な効果としては、「テキスト」を読み始めてから、自分で自分を苦しめる瞬間は、少しずつ減ってきているように感じます。それとともに、もっともっとACIMの謳う世界に深く入っていこうとも思っています。

しかし、自分という「魂」が、自我(エゴ)だの罪悪感だの怖れだのを手放していくにつれ、どのような光を放ちはじめ、他の魂にどのような影響を与える存在になるのか、まだまだ全くわかりません。
「目覚舎(めざめや)」なる屋号めいたものは決めていますが、果たしてそこに込めた思いのとおり進んでいくのか。いやいやそれはオマエのエゴが怖れや罪悪感を覆い隠すべくでっち上げた楼閣だろ?ってオチで終わるのか。

前者であると信じて、明日もACIMを読み進めます。


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