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ニューヨークのギマール

フランスのアール・ヌーヴォー建築で代表的な人物は、何といってもエクトル・ギマール(Hector Guimard)。パリの16区にはギマール設計のすてき建築がたくさんあるので、アール・ヌーヴォー建築めぐりをしてみたくなったら、ぜひ行ってみるといいっすよ。しかもギマール作品は16区の南の方に固まって存在しているので巡回もしやすいです。というわけでわたくしも、しばしば足を運んでいます。

同区のラ・フォンテーヌ通りとアガール通りが接するエリアには、ギマール設計(1909‐1912年)の集合住宅が6棟も建ち並んでいます。大規模かつ優美な建築群で、ギマールが建築家として波に乗っている頃の作品です。そこでいつものように写真を撮りまくっていたときのこと。

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同じく建物の写真を撮っているおじさんがわたくしの他にもいました。目が合うと、「ナイスな建物だよね。」あ。話しかけてきた。しかも英語か…。

英会話は得意ではないので、あ。あわ。あわわ。となっているわたくしにお構いなくおじさんは、これはギマール作で、この界隈には彼が作った美しい建築が他にもいっぱいあるよね、たとえば云々、といったようなことを多分語ってきたのだと思います。そこでわたくしも「はい。私はそれらを知っています。私もまた、ギマールのアーキテクチャーが好きです。」と、応ず。

おじさんはさらに次のようにも語ったように聞こえました。ギマールはこうやってスター建築家になったけれど晩年は不遇で、最後はアメリカのニューヨークでひっそり亡くなったのだと。

ギマールのキャリア後半が明るいものではなかったことは、わたくしも何となく知ってはいました。下記参考文献のギマール作品紹介文を読んでもそれは分かるし、ギマールの後年の建築作品を実際に見ても、様式上の模索状態というか何か混迷したものが明らかに見て取れもしたので。しかしニューヨークに渡って、そこで亡くなっていたとは知らなかった。帰宅後に調べてみるとたしかに、1942年3月20日、ニューヨークにて没。

じつは、この集合住宅群は実は9棟の建築予定でした。しかし第一次世界大戦前夜の先行き不透明な情勢のあおりを受け、事業は縮小。実際に建てられ現存する6棟に残りの3棟が加わることはありませんでした。そして第一次大戦後に主流となった建築様式は、アール・デコとモダニズム。アール・ヌーヴォーは完全に時代遅れになっておりました。ギマールも自分の建築作品に新しい様式を取り入れようと試みます。しかし上に述べましたように、キャリア絶頂期に発揮されたような独創性はもう見受けられなくなります。寡作になっていったギマールはその後1938年、再び戦争の機運高まる不穏なヨーロッパを去ります。移住先は、ユダヤ人であった奥さんの出身地、ニューヨーク。

以上がギマールの後半生です。新大陸では建築作品をひとつも残しませんでした(わたくしが調べた限り)。すでに1930年にクライスラー・ビルが、翌31年にエンパイア・ステート・ビルが竣工し、摩天楼がにょきにょき育っていたニューヨーク。パリのアール・ヌーヴォーの巨匠はそれらのビルディングを見て、何を思っただろう。というか見に行ってすらいないのかもしれない。どちらにせよ晩年のギマールの沈黙からは、確かなことは何もうかがえません。

こうして見てくると、当初の建築計画が縮小された規模でしか実現しなかった上記の集合住宅群が、ギマールのキャリアの転換点のひとつだったといえる気がします。この建築からは、円熟期に達したアール・ヌーヴォー建築家の才気と余裕みたいなものが感じられるだけにより一層、ギマールのその後を思うと、栄枯盛衰みたいなことが感じられてしみじみします。

没後、ギマールのお墓は、ニューヨーク中心街から北におよそ25マイル離れたところにあるゲイト・オブ・ヘヴン墓地にたてられました。そして、今もそこにあります。


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ギマールの集合住宅群の他の写真は以下の拙ブログにてご覧いただけます。

参考文献等(文献名は斜体になっておりません。)
・Éric Lapierre (et al.), Guide d’architecture Paris 1900-2008, Éditions du Pavillon de l’Arsenal, 2008, no. 133.
・Michel Poisson, Façades parisiennes, Parigramme, 2006, p. 178.
・Le Cercle Guimard:ギマール協会ホームページ(日本語がある!!しかも自然な日本語の文章になっている。誰が訳したんだろう……。)
・« Hector Guimard », Wikipédia (fr).

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