8/11 圓朝忌 落語と怪談

八月十一日は圓朝忌にあたります。
わたしのいる業界の大人物であります、三遊亭圓朝師匠のご命日です。“大圓朝”と称される、近代落語にとっての最重要人物であります。
圓朝師匠の功績については、皆さまよく調べて頂きたいのでありますが、ある程度完成したストーリーを個人で扱う業種に属している以上、その偉大さと仕事量には、つねに畏敬の念が絶えない存在です。

悲しいかなわたしたちは、記録媒体に残されている限りでしか先人の業績に接するしかできません。伝聞や伝説については、伝えられたエクリチュールを通して接することができます。しかし同時代に生きることが叶わなかった物事について、どこまで肉薄できるものなのか。
ましてや、直接の話芸が“情報”でなく“体験”に属しているとあれば。

西洋から近代科学の光が本邦の闇をあまねく照らすようにしてやってきたあの時代。人間に知れぬ領域として立ち現れる幽霊たちに、どのように対峙したらよいか。
圓朝師匠はここに立ち向かった。恐怖の生まれいずる根源を睨みつけ、これが後世に残るという確信があったかわからないが、結果として全ては記録され今日の落語にとって圧倒的な一領域を形成した。

コワい話は、科学が進めば進むほどにバリエーションを豊かにして不可思議の領域を保持し続ける。これは現在の怪談業界をみれば明らかであります。

圓朝師の声は既に消え去ったに関わらず、何度も再帰するいくつかの音がある。
例えば『牡丹燈籠』によく知られる、幽霊が近づく下駄の足音「カランコロン」は、恐らく当時は足のない設定がデフォルトだった幽霊の目新しさとして受け入れられたはずです。
そう、それまで“触れることはできない”とされていたアイドルという存在を“握手券”というシステムを導入して乗り越えてきたAKBのように「本当に!?」ってなったはずなんです。

この下駄の音は、ゲゲゲの鬼太郎の「カランコロン」に直接つながる一方、擬音として大きな効果をもたらします。現代の怪談によくある表現として、子供の裸足の足音「ペタペタ…」だとか、旧日本兵の軍靴の音「ザッザッ…」だとか。話芸としては欠かせない要素です。
また、足の動きというのは、幽霊に動きをもたらすうえでも決定的です。あの日本ホラー映画の傑作『リング』で貞子の足がひん曲がった描写とか(もしそんな描写なかったらごめんなさい)、テレビから這い出てるさまとか。徐々にこちらにやってくる恐怖は、圓朝師の表現と地続きであると考えられます。

あんまり書いていると深入りしてしまいそうなので、このあたりで。
三遊亭圓朝師匠の現在に影響を与える凄さについて知って頂きたいと思い、書いてみました。

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