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自信というのは自分を信じる力のことかもしれない読んで字のごとく

久しぶりに文章を書いておこうと思う。誤字脱字、つじつまの合わなさは後で修正するつもりでえいやしてみよう。喋ったほうが早いのだけど、なんとなく文字で。


今東京に来ています。東京で知り合った友人夫婦に会いに移住先である高知まで行っておりまして、その流れで今週末の東京の予定を完遂するために滞在しているというわけです。昨日今日と仕事やばそうだな~と思っていたけどなんやかんやで待機時間となってしまいまして、何もしないこともしてみたけど「こりゃ、残しておいたほうがいいな」と思ったので色々下書きいじったり、この文章を書いていたりします。今月の仕事量(少ない方に)やべぇなと思う気持ちを紛らわせつつ。



先日前々から約束していた友人と話をしていて「自信がない」「私には誇れる実績がない」というようなことを話していたんです。彼女はカメラマンをやっていて、月に何件も依頼があり、副業としてうまくやれていると思うし、SNSで写真を上げれば沢山反応があるし、だけどそう思うんだそうで。会社勤めの方の仕事でも社員さんとうまく馴染めないし仕事を手伝いたいと思っても指揮命令権のアレコレとか業務量オーバーになるかもとか気にすることも多く、色々とうまく出来ず辞めてしまったと。


その話を聞きながら(しっかり聞いてたよ)『自信』っていうのは自分を信じるって書くんだな、と当たり前のことを考えていた。それはタイトル通り読んで字のごとくで自分を信じているってことなんですけど、その時初めて知った言葉みたいに私の中ではドキドキしていた。


彼女はその日撮影の下見で神社にいた。以前撮影した方のもう一人のお子さんの七五三の撮影らしい。リピーターさんで前回の写真を気に入ってくれて今回も依頼してくれているのだろうと思った。だけど彼女は何度も同じ場所でも撮影前に下見をする。これってすごいなって思うんだけど普通なのかな?どちらにしろカメラマンさんというのは撮影以外にかける時間が膨大だ。私も撮影してもらった事があるけど、下見から、こんな雰囲気を目指しているというイメージなどをまとめてくれたり。

その日は日曜日で別のカメラマンさんが七五三の撮影していたらしく、その人はお子さんをあやすおもちゃを沢山持っていたらしい。それを見て「ああゆうの用意したほうがいいのかな?」と彼女はそうでもなさそうにつぶやいた。そのつぶやきにあまり前向きな感じがしなくて「そうしたほうがいい!って思えるならいいと思うけど、そう思ってる?」って聞いてみた。少し考えていたけど、おそらく彼女のこだわりや、やってあげたいと思う事はそこじゃないのかなと思った。

そんな様子を見ていると少し前の自分にすごく似ているなと思う。自分の中に感じていることはあるんだけど、それが本当にいいのかどうかを考えてしまってわからなくなる。そして誰かのいいということを聞いてしまい、ますます自分のことがわからなくなる感覚。そんな話もしてくれた。私にも覚えがある感覚だ。

今その状況の自分を見てみると、我を失っているなぁ、自分の感じていることをどこかから引っ張り出してきた「正しさ」のようなものに当てはめてみようとしてなかったことにしようとしているなぁ。そんな気がする。正しさが分からなくて人の声に溺れてしまっている状態というのは、1番身近なはずの自分とのつながりが薄くなってしまっているのだろう。


彼女は辞めてしまった職場でも、みんなこれまでの華々しい仕事の経験を話してくれるのだけど、自分の紹介をする時に「派遣で働いてます。よろしくお願いします」しか言うことがない、と言っていた。カメラマンで!最近自分の作品集を作って!こんなに素敵な作品を作っているのに!休日も毎日カメラ構えてロケハンしてるのに!そこを話さないなんて…!とのたうち回る私(少々盛った)

自分の写真の写真集作ってるなんていう最強カード出さないでなにやってんだよぉぉぉとなった。当の本人は「だってそんなの別にすごくない」「誰だってできる」って言う。私もアクセサリーを作って販売してたとか「誰でも出来るしそれで食えてるわけじゃない」とか言うだろう。出来ない人にしたらどちらもすごいことではあるけど、何かと比べてしまってる。自慢する必要はなくても、そこまで自分を下げる必要もなかろう。でも自信がないという時は、なんだかネガティブな方にいってしまうものだ。だって自分から離れてるんだから。


ぼわ~っとしてきたので自信、という話についてのエピソードを持ってきてみよう。


自信満々に「私は〇〇の声が聞こえる」と言ってそれをサービス化している人がいた。私は単純にすごい!聞いてもらいたい!という思いと「どうして目に見えていないものが聞こえていると信じられるんだろう」と思ってちょっとイライラしていた。(そういうお年頃だったし自分だってと思うものが少しあったせいだと思う)自分が特別な能力を持っていると、思い込んでいるだけだと。じゃあなんでそんなに自信がるのかと時間が経って考えてみたことがある。

多分その人は「聞こえる、そんな気がする」という自分の感覚をものすごく信じているのだ。最初はもしかして、くらいだったかもしれない。疑ったこともあるかもしれない。でも「あれ、やっぱり聞こえる」「こう言っている」そんな気がする、という自分の感覚を強く信じている。だから「聞こえる」と言えるのだ。思い込みといえばそうなんだけど、どうせ思い込むなら信じる方に使ったほうがいいんだけど、方向が違うと人生は真逆に行くよね。

カメラマンの彼女なら「この瞬間だ」と感じてシャッターを切ることができる、その瞬間はその人だけのものだ。だからこそ同じものは出来ない。それぞれの感覚が必ずあるし、それは凄腕の霊能者であろうと、他人の感覚よりも正確なものだ。

この世界をその美しさで切り取れるのはその人だけなのだ。この世界の何かを受け取る事自体がそれぞれ特別。

それをただ信じている状態、自分(の感じているもの/見えるもの/聞こえるもの)をただ信じている状態がみんなが欲しがる「自信がある」という状態なんじゃないかと思ってそのことに気がついて私は震えた。何か裏付けや努力の積み重ねによって生まれるのものではなく、ありのままに自分が感じている感覚を「こう感じている」と信じている状態なのではないか。


と、なると同時に自信がないという心の状態は異常なのではと思った。だって自分から湧いてくる感覚、自分で感じていることが分からなくなってしまっているということだから。それはもうコンパスのない旅人や船乗り状態。自信がない、と我々は「ただこのことにだけ自信がないだけだよ」「経験があれば自信がつくはず」と軽く考えがちだど、一刻も早く自分自分と繋がれるように一人になるべきだ(極端w)そんな時に瞑想というのが必要なんだなと。

自分はこう感じている、そこにいいも悪いもない、私はこう思う、私はこうしたい、こうしたくない、それをただ受け入れているだけでとんでもなく安心できる。少なくとも私はそうだ。今は、決めたくない、行きたくない。
まだまだ外の声に反応してソワソワしてわからなくなることも多いし、いい人ではいられなくなるわけなんだけど、そんな自分のほうがきっと楽だし好きになれる気がする。


それぞれにギフトがあって、…そんな気がする、を信じてみたら、その自分の感覚を否定せずに心を開いてあげたら、心はとんでもなく喜んで、自分を誇らしく思う気持ちが揺るぎない自信になるのであろうと思う。のです。

私はその感覚を信じている人を内心すっげー馬鹿にしていた過去があるので(笑)こうかも!と感じていても勘違いだって思ってたし調子に乗るなって思って叩き潰してました。やはりね自信、微塵もなかったです。今もやっぱり怖いです。否定したりしてるのは結局自分だよね。今はその感覚に少し心開いてあげようと思ってます。そうかもしれないって。こうやって私は感じているから。それの善悪とかは関係なく。自分はそう感じる人間なんだって。少し心が軽くなるし、何も実績がなくても私であるということにジタバタしなくなる。これが自信か。胸を張れることだけじゃない、何が出来るとかいくら稼いでるとか関係ない。揺るぎない私であるというこの感覚だ。


そんなことを話の中でおもったのでした。ちなみに彼女はよく一人になっちゃう~とか言っていますが、事実なんやかんやめちゃめちゃ周りの人に愛されています。本人も薄々そんな気がしてるんだと思うんですが、それは勘違いということにしちゃってるのかな、なんて。お互いに大切な気づきを経て、さて、私達はどうなることか。


太文字が効果的に使えてないのでまた書き直すかもですが、ひとまず今日はこんな感じで。うん、頑張った!加筆したら1,000文字増えたね!



どれだけ自分のことを信じているか
自分を信じてる力(りょく)
それが自信

それがないと感じるなら一刻も早く
自分はこう思う、感じている
それを諦める(明らかにして認める)べきだ
善悪は関係ない
そう感じられるのは私だけだから

あなたが感じているものも
あなただけのものだから




(性格上あんまりべき、とか言いたくないですけど。自分の感覚を蔑ろにすることは辞めるべきかな。今の私には大事なこと。)












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