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礼拝説教は、神の言葉。いのちある説教に対しては、それを受けていまここでおまえはどうするのだ、という問いかけがあります。何らかの形で、それへの応答を、祈りのように告げることが必要だ… もっと読む
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記事一覧

「ハレルヤ」を聞きながら

黙示録の講解説教が続く。いつしか18章から19章にまで旅してきた。19章は4節までで区切られた…

たかぱん
15時間前

来たれ聖霊よ

ペンテコステ礼拝である。教会の三大祝祭日の一つとされている。弟子たちに聖霊が降臨したこと…

たかぱん
7日前
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目を覚ますことと祈ること

説教に「まくら」などという言葉を使うのは不適切かもしれないが、説教者により、いくつかのタ…

たかぱん
2週間前
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絶望ゆえの勝利

黙示録を読み解くひとときが続く。17章が開かれたが、ここから18章辺りまでが、実に黙示録らし…

たかぱん
3週間前
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神の怒りから愛の歌へ

4月26日午後、加藤常昭先生が召された。縁のある教会である。牧会したということではなかった…

たかぱん
4週間前
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沈黙の声と歌

十字架と復活を語る春であったため、久しぶりの黙示録講解説教である。15章から再開し、その全…

たかぱん
1か月前
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宣教と神の真実

復活のイエス・キリストの物語は、まだ終わらない。――説教者がまず発した言葉は、説教の姿勢を端的に伝えていた。これだけで終わっても、説教としては十分だっただろう。キリストの復活の物語は、いまこうしてこの教会で語るところに続いているし、それを聴く者においても続いている。イエス・キリストはいまここで生きている。信じる私たちと共にいる。   その言葉の含みもつ福音は、まだしばらくはこの主日礼拝の中で輝いているように仕掛けられていた。まずは、説教者自身の証しが展開された。時に、説教者の

大きなキリスト

第一コリント書の最後の16章は、些か落ち着かないところがある。直前でまとまった復活論を述べ…

たかぱん
1か月前

マルコ伝の「復活」

復活祭礼拝。確かに、復活ということが信じられないので、教会に行くのが憚られる、というケー…

たかぱん
1か月前
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子ろばに身を置いて思うこと

受難週を迎えるにあたり、十字架そのものよりは、エルサレム入城のほうが、選ぶ聖書箇所として…

たかぱん
1か月前
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河の流れのように

「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」(マルコ8:27)とイエスが問う。弟子たちは様々…

たかぱん
2か月前
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楽しく厳しい説教

子どものための礼拝を別枠でつくるということは時折あることで、しかし年に何度か、子どもたち…

たかぱん
2か月前

オルタナティブな読み方

説教は、「ヤコブの梯子」を見たという話から始まった。美しいその情景は、薄明光線などと言う…

たかぱん
2か月前
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キリストの中で

黙示録の講解説教は、14章に入り、本日は「三人の天使の言葉」というタイトルがつけてある箇所が開かれた。中心聖句は、13節である。   また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」“霊”も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」   主「に結ばれて」というのは、英語なら「in」にあたり、聖書協会共同訳では「にあって」と修正されている。「に結ばれて」は、カトリックとの初の共同訳で