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盗むのではなく (出エジプト20:15, 申命記5:19)【十戒⑧】

◆盗むということ

盗んではならない。(出エジプト20:15,申命記5:19)
 
十戒の中でも、意味を分かりやすい戒めの一つです。世界中の宗教でも道徳でも、これを省くことは恐らくないでしょう。でも、どうして盗んではならないのでしょう。理屈をこねようとしたほうが、ややこしくなるかもしれません。「人を殺してはならない」のは何故か、とNews23で高校生に問われた知識人たちが、答えられなかったのと同様に、盗むことが悪であるということも、哲学的に基礎づけるのは決して容易ではないのでしょう。
 
検討するといろいろ問題があると思いますが、さしあたり、人の所有権を侵す、とでも考えておきましょうか。ところがそうすると、第十戒にも似たようなものが並んでいることに気がつきます。
 
隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛とろばなど、隣人のものを一切欲してはならない。(出エジプト20:17)
 
申命記のほうは、「家」と「妻」とが入れ替っているのが面白いと思いますが、こちらの要点は「欲してはならない」というところにあるのでしょう。欲すること、貪ることを戒めています。こちらは再来週に受け止めることにしましょう。しかし第八戒のほうは、端的に「盗んではならない」という盗みの行為そのものを取り扱っています。
 
「盗人」という言葉を、最近聞かなくなりました。芥川龍之介の短篇に「偸盗」というのがあり、私はこの言葉を初めて知りました。これは仏教の戒めで、「十悪」の一つだそうです。(参考・殺生・偸盗(ちゅうとう)・邪淫・妄語・綺語(きご)・悪口(あっく)・両舌・貪欲(とんよく)・瞋恚(しんい)・邪見)
 
「ヌスピトハギ」という植物を思い出します。実の形からついた名前だそうですが、初秋、服に茶色の実が付く「ひっつき虫」の代表です。
 
「盗人猛々しい」という言葉も、使われなくなりましたでしょうか。泥棒をしていながら平然と生活している、あるいは、悪事を営みながら居直っている様子を表す言葉です。キリスト者というものは、自分がそうではないか、いつも反省している者ではないか、と私は思っています。
 
「泥棒猫」という言葉はどうでしょう。猫は餌にしか興味を示さないでしょうが、この言葉は、いまでいう略奪愛を行った女性のこと蔑んで言う言い方です。夫を盗まれたわけですね。
 
野球では、「盗塁」が拍手を浴びます。あのグラウンドの距離が、盗塁できるかどうかの絶妙な数字になっているということを、聞いたことがあります。あれより遠くても、近くても、面白くないのだそうです。「投手のモーションを盗む」のも、ランナーの技ですね。「サインを盗む」というのはいけないことですが、1998年にダイエーホークスが外野席からサインを盗んでいた、というスクープを西日本新聞が報じました。
 
弟子が、師匠から芸を盗むことは、むしろ昔の芸事の常識でした。いまはそんなことをしたら、何も教えてくれない、といまの若者なら訴えかねません。しかも乱暴に教えたらブラックだとか何だとか、逆ギレされかねないわけで、果たしてそれでよいのかどうか、一考を要するかもしれません。
 
慣用句では「人目を盗む」という言葉が頭に浮かびます。人に知られないようにこっそりと何かをすることですね。
 
「君のハートを盗むからね」なんてキザな台詞は、いまでは流行らないでしょうか。
 

◆聖書の中の例

思いつくままに、聖書の中で「盗み」が起こった事例を挙げてみます。
 
旧約聖書の創世記で、ヤコブはなかなかの巧者なのですが、その妻ラケルもまた、やり手です。兄ラバンの許をついにヤコブが去るとき、ラケルは家のテラフィムをこっそり盗んで持ち去りました。テラフィムというのは神の像、いわば偶像ですが、ラケルはそれを拝むために盗んだのではありませんでした。像自体に価値があったのも事実でしょうが、家の財産や権利を相続するための証拠のようなものだった、と考えられています。
 
ヤコブの子ヨセフは、エジプトで宰相になりました。ヨセフの兄たちが、ヨセフを捨てたことが、結果的にエジプトでヨセフが出世する契機となったのです。しかしそれとは知らず、カナンの地で飢饉に遭ったヨセフの兄たちは、のこのこエジプトのヨセフの許に行き、食糧を売ってくれと願います。同じ母親をもつ弟のベニヤミンに会いたいヨセフは、策を練ります。食糧を持ち帰るベニヤミンの荷物の中に、密かに銀の杯を隠すのです。そして、帰路に就く兄弟たちを呼び止めて、誰が銀の杯を盗んだのかと問いただしました。そんなことはしない、した者がいたら殺せ、と兄たちが言いますが、ヨセフはその者だけがエジプトの奴隷になればいい、と答えます。ヨセフは、ベニヤミンだけを傍に置いておきたかったのです。
 
さて、ベニヤミンの荷物の中から銀の杯が見つかります。これは、仕掛けられた盗みでした。逆に、盗んだことが命にも匹敵するということをも示す出来事でした。これを契機にヨセフは身を明かし、兄たちは父ヤコブを連れてエジプトへ下ることとなります。イスラエルの民の壮大な歴史の、ある意味で根本的なきっかけとなりました。
 
ヨシュア記には、本当の盗みが出てきます。カナンの地に進入しようとするヨシュアたちは、面白いようにエリコの町を攻略します。そして次にアイの町を落とすのは簡単だと見ていたら、惨敗しました。その原因が主から言い渡されます。エリコの攻略のときに、戦利品を自分だけのものにしようとして盗んだ者がいたのが原因だ、と言うのです。調べると、アカンという男が見つかりました。
 
戦利品のうち、主に献げる財は別として、財にならぬものはすべて滅ぼし尽くせと言われていたにも拘わらず、アカンは、一部のものを隠し持ち帰ったのです。これが、イスラエルがアイで負けた原因だったということで、アカンは死罪となり、呪われました。
 
後にダビデが王となる直前、イスラエルの王は初代のサウルでした。が、サウルは執拗にダビデを追い、殺そうと考えていました。ダビデは、荒れ野で迫られたときに、サウルの隙を見つけます。夜、サウルの陣営に忍び込みますが、何故か誰ひとり目覚めることはありません。サウルも寝ています。一緒に来ていた部下のアビシャイが、敵を一槍で仕留めましょう、といきり立ちますが、ダビデは、主が油注いだ方を殺してはいけない、と制止します。ただ、槍と水差しを持ち帰り、その後、サウルに自分が命を助けたという証拠にしようとします。
 
実はこの前に、同じようなことがあり、そのときにはサウルの上着の端を切り取って持ち帰っていました。ただ、ダビデはそのとき、サウルの命の代わりに上着を切り取ったことさえも、後悔しています。それさえも、主が油を注がれた方に手をかけたことは許されない、と言うのでした。
 
どちらにしても、ダビデはある種の盗みをしたのです。サウルの命を取らずに証拠の品だけを盗んだという美談であるにしても、ダビデはそれさえも気にしたのでした。尤も、二度目の槍と水差しについては、このような後悔した様子は書かれていません。ただ、それは証拠立ててすぐに返却しています。
 
このダビデは、後にヘト人ウリヤから、その妻バト・シェバを盗みました。これは、ダビデに盗んだという自覚がなく、ウリヤを謀殺したほどですから、さすがのダビデもこれには罰を受けることになりました。
 
長くなりました。最後に、新約聖書の中での盗みの例をひとつ挙げて終わりにします。有名な、アナニアとサフィラの出来事です。聖霊が降り、生まれた最初の教会共同体のメンバーでした。皆、金を出し合って、共同生活をしていたようなのですが、この二人は夫婦で口裏を合わせ、土地を売った代金を、全部教会に納めているような顔をしておきながら、実はそれは全部ではなかった、という点が罰されました。一部の金を盗んだことになります。
 
これは、いまようやく世間に広く知られるようになった、キリスト教に似せて利用する新興宗教が、全財産を献げよ、と迫ったことと重ねられるものではありません。ペトロは、土地を売らなくてもよかったし、売ったとしても、これが全額だと言わなければよかったのに、と説明しています。夫婦は、一部だけを献げて、コレが全部です、と偽ったことで、二人とも神により突然死が与えられたというわけでした。
 
神に献げるべきものを盗んだという意味では、アカンの罪とつながる点があります。聖書は、こうした罪に対しては、直ちに死を与えています。厳しいものです。
 

◆時間を超えて盗む

私個人、盗みをはたらいた経験があります。後に、信仰が与えられたとき、詫びの手紙を送りました。ずいぶん以前のことなので、返事はありませんでした。その店が、もうなくなっていたのかもしれません。しかし、もうひとつ、別のタイプの盗みについて、電話で詫びたこともあります。これは巨大な会社でした。許してくださり、泣きました。そして、時々、信仰が理由でそうやって告白してくる人がいるのだ、ということも聞きました。キリスト者はこうして、悔い改めを実行して、洗礼を受けるのです。
 
他人の権利を奪い、不正に自分のものにしてしまうこと。そのように「盗み」を理解してここまできましたが、それを悪いことだと自覚していないことがあるようにも思います。これくらいいいではないか、と考えるわけです。また、そもそも自分が盗みをやったということに、気づいていないことすらあるでしょう。
 
あるいはまた、気づこうともしていない、気づきたくない、とまで言えることがあるかもしれません。
 
「持続可能な開発目標」という日本語よりも、「SDGs」という言葉のほうが、知られるようになりました。2015年に国連総会で採択された国際目標です。ただの環境問題であるかのように見られているかもしれませんが、17の目標は、まず貧困、それから飢餓の問題が挙げられます。健康と福祉、そして教育、といったふうに、人類にとり重要な活動が、次々と並べられます。
 
それは、いまいる人々を大切にすることでもありますが、目標たるものは、気候変動などの項目に入ってゆくと、将来へ向けての眼差しがそこにあることに気がつきます。だからこそ、「持続可能」という言葉がそこにあるのだと思います。
 
2017年、衆議院憲法審査会事務局が、「「新しい人権等」に関する資料」という文書を作成しています。プライバシー権や知的財産権、生命倫理など、いまでは常識化している考えもまとめられているのですが、その中に、参考にした資料として、ドイツの法律に触れられているところがあります。
 
ドイツ基本法 20a条は、「国は、来たるべき世代に対する責任を果たすためにも、憲法的秩序の枠内において立法を通じて、また、法律および法の基準にしたがって執行権および裁判を通じて、自然的生存〔生命〕基盤および動物を保護する。」と規定している。
 
「来たるべき世代に対する責任」とは何でしょうか。ドイツは環境問題の先進国の一つです。この考えは、いまある環境を護るというだけではなくて、将来にわたる視野をもっています。
 
この点を強調している運動が、いま世界中で、とくに若者の間で拡がっています。2018年から独りで活動を始めた、スウェーデンのグレタ・トゥーンベリさんが、その動きを大きく強くしました。彼女のことについては、すでによく知られていますが、表向きの印象だけで馬鹿にし揶揄する大人が多いことは残念です。
 
そもそもレイチェル・カーソンが60年以上前に発表した『沈黙の春』も、特に保守層からは批判の矢を受け続けました。環境問題を、体を張って取り上げる人々の代表に女性が多いことも、考えさせられます。
 
若い世代の叫びは、自分たちが生きる未来の環境が切実な問題だからです。いまの高齢者は、いくら石油を使おうが、いくら空気や水が汚れようが、温暖化が今後加速しようが、自分たちはその世界からいなくなります。しかし、若い世代が、さらに言えば、いまはまだいなくても将来生まれる彼らの子どもたちが、その悪化した環境を背負って生きていかねばなりません。
 
同じ倫理にしても、いまここにいない子孫に対する倫理観が問われているわけです。他者に対する責任ということは、従来の倫理学でも当然話題でした。しかし、いま存在しない人に対する責任ということを、人類は蔑ろにしてきました。そしてそのままこうしてきたのですが、いまや「子孫に対する責任」を考えなければならない時代となっています。
 
これをキリスト教的な言葉を使うならば、「子孫に対する罪」です。この言葉は、実際政治的議論の場においても、少しずつ使われるようになっています。この罪は、いまここで犯す罪ではありませんが、時間を置いて働く罪となります。将来の子孫の環境を奪う私たちは、いわば時間を超えて盗みをはたらいている、ということにならないでしょうか。
 

◆時間をも盗んでいる

時間を超えて盗むということさえ、あり得るし、現に行っている、という自覚を得ました。さらにいえば、いまこの時点で、時間そのものを盗むということも起こり得ると思います。
 
会議の約束の時刻に、つい遅れた。そのために会議が5分遅く始まった。約束の時刻にいた人の5分間を奪ったことになります。たった5分ではないか、と遅れた側は弁解するかもしれません。しかし、その会議に10人参加していたら、50分と計算できるかもしれません。100人だったら、500分です。
 
それは、抽象的な計算かもしれませんが、会社の会議だとそれなりのお偉方が出席しますから、ひとつ金銭的に計算してみましょう。月給100万円の役員たちは、簡単に計算して時給5000円になります。5分間は400円に相当します。10人いたらその時点で4000円を無駄にしたことになります。100人いたら40000円です。遅れた当人が、これを支払うことはありません。見えない損害を出していることになります。これが10分遅れたら当然2倍となるでしょう。時間の盗みは、実害も伴うことが分かります。
 
会社の物品を持ち帰ったら、業務上横領罪となります。が、実際会社のボールペンを持ち帰って私用に使ったなどということは、ありがちなことかもしれません。会社の紙を自分のために使うのも、そうです。仕事上、私はわりとそれがあります。損紙(再利用も難しい折れなどがあるもの)なので、捨てるのがもったいないという思いが働くときに使うのですが、それでも会社の紙は会社の紙です。盗んだと言われたら、それに間違いありません。
 
映画館で他人に迷惑をかけると、他人の映画鑑賞の楽しみを奪ったことになります。電車の車両全体に聞こえるような声でお喋りをすると、静かにしたい人や物事を考えたい人の機会を奪うことにもなるでしょう。授業や講演会でお喋りをすると、他人の学びの機会を奪うのだとも言えます。
 
私たちは、気づこうと意識すれば、いくらでも盗むということをやっている自分に気づくことができるのではないでしょうか。
 

◆プロメテウスの火

ここで、スケールを大きくしてみましょう。人類全体にとって教訓となる、偉大な盗みとして、知識人たちはしばしばこの話を取り上げます。それはギリシア神話にあります。現代文明、特に原子力という問題についてよく言及されるため、聞いたことがある方も少なくないと思います。「プロメテウスの火」という話です。私は神話をよく知る者ではないのですが、ガイドブック的なものから辿ってみることにします。
 
神々の中でプロメテウスは、人間と神々とを峻別する役割を申し出ました。彼は、牛を二つに分けます。肉を皮で包み、骨を脂で巻きます。つまり、見た目を中身と逆にするのでした。神々の王たるゼウスに、神々にはどちらがよいか、と選んでもらいます。プロメテウスは、神々の分として、ゼウスが見かけ通りに中身が骨の方を選ぶだろうと企んでいたのです。人間には、肉の方が割り当てられるだろう、と。
 
ゼウスは、そんな企みはお見通しです。しかし敢えて騙されて、脂で美味しそうな見かけの骨のほうを神々のものとして選びました。但し、人間には火が使えないようにしました。そのため、人間は、死ねばその肉のように、腐って消えてしまう運命をもつようになったというのです。
 
プロメテウスは、火を奪われ、自然の中で弱い立場に追い込まれた人間に同情します。火があれば、寒さに震えることはありません。調理もできて、豊かな食が得られます。そこで、こっそり炉の中に草を差し込み、火を点けました。そして地上の人間のところに持って行き、人類に「火」を渡しました。火を盗んだのです。
 
これにより、人間は火を用いることができるようになり、次々と文明を築きます。しかし人間はやがて、その火を用いて、武器を作り出し、戦いに明け暮れるようになりました。
 
ゼウスはこれに怒りを示し、この後、肝臓を鳥についばませるという罰を、プロメテウスに与えることになります。不死なるプロメテウスは、その後3万年にわたり、責め苦を味わい続けることになりました。
 
人類に火をもたらした物語でした。人間は、確かに戦争のために火を用い続けています。しかし、火をできるだけ平和に用いようと知恵を働かせることもしたとは思います。けれども、原子力の火は、他方で放射能の危険をも伴っており、チェルノブイリ原発事故はそのリアルさを見せつけました。津波による福島の事故もそうです。
 
神々の火を盗み出したプロメテウスは、果たして人間に幸いをもたらしたのかどうか、昔の人は問うてみたのでしょう。その問いについて、私たちはまだ明確な結論は見出していないと思います。地震のたびに、原子力発電所は無事だという報道がなされますが、それは逆に、地震や災害、あるいは他国からの攻撃によって、原子力発電所が国土の破壊をもたらすものであるということへの恐れを表わしているのかもしれません。
 

◆神のものを盗む

地とそこに満ちるもの/世界とそこに住むものは主のもの。(詩編24:1)
 
聖書では、自然のものは神のものだ、と理解されています。そもそも天地万物は、神の創造によって生まれたものだからです。そうであれば、自然を奪うということは、神のものを盗むことと考えてもおかしくないのではないでしょうか。
 
しかし、私たちは自然を壊さなければ生活することができません。生物を殺して食べなければ、生きてゆくことができません。かつて流行ったことがある「ベジタリアン(vegetarian)」という言葉で表わされた生き方も、いまは造語の「ビーガン(vegan)」に変わりつつあります。こうした言葉の定義はなかなか難しいようですが、おおまかに言って、「ベジタリアン」は乳製品や卵を食します。「野菜」という意味の「ベジタブル」からきているというよりも、「活力ある」の意味に由来する言葉だと言いますので、当初はそれでよかったのです。
 
しかし、その乳製品や卵のような動物性食品すら一切口にしない、という考え方が登場します。これは、動物の命を守ることを頭に置いているのだそうです。従って、こちらはさらに強い倫理的視点が中核にある、と言えるのかもしれません。
 
けれども、植物であっても、命を奪うことから逃れるわけではありません。私たちは、砂を噛んで生きてゆくことはできないように造られています。
 
創世記の初めは、神による世界の創造物語でした。人間は、動物より後に造られ、この世界の管理を任されます。それが「支配」だと理解して、好き勝手にしてきたような歴史から、「管理」だという認識に転じようとしているのが、昨今の聖書の読み方です。もちろん、読み方を替えたからといって、これまでの自然破壊の責任を免れるわけではありません。さらに、その管理が実際うまくいっていない、というのが実情であるとすれば、人間はどうすればよいのでしょうか。倫理学の課題であると共に、私たち一人ひとりの生活をどうするか、と問われていることを自覚しなければなりません。
 
もしも、食べることや利用することそれ自体を罪だとしてしまうと、それの目的である命や生きることそのものを拒むことになりかねせん。聖書は、血は命だと言っていました。これを拡大解釈して、子どもに輸血の必要な手術をさせない、ということが聖書の教義だ、と思いこまされて、子どもを死なせた親が幾人もいます。病院側でも、これへの対策のガイドラインが作られています。輸血をせずに患者をみすみす死なせることにより罪に問われるか、輸血を強行して患者を助けてその親から訴えられるか、二律背反の中に置かれる事例が相次いだからです。
 
よく知られるのが、エホバの証人という組織です。教団側も、そんな教義を組織は強要していない、などと弁明しているようですが、統一協会などと同様に、一般社会の法や倫理に反する秩序をつくっていることは事実でしょう。キリスト教会も、ローマ帝国で共同体活動を始めたとき、間違いなく「反社会的団体」だったのですから、安易に非難することは避けたいとは思いますが。
 
現在のキリスト教会でさえ、社会通念とは折り合わない部分が必ずあります。私のように日曜日の勤務を拒否して、なお長年雇ってもらっているという例は、むしろ珍しいのではないでしょうか。否、そんなことはいまは関係のないことです。教会の中で、ハラスメントや暴力すらなされていること、しかもその自覚するないことは、重症です。そうして人を傷つけてその人の信仰を奪うことは、石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれるに値することだ、と聖書は言っています。信仰の魂を踏み潰すことは、最悪に「神のものを盗む」ことではないでしょうか。
 

◆イエス・キリストの命

幸いに信仰が保たれ、それなりに健全な信仰生活が続けられているキリスト者は、「盗んではならない」の掟からも、たいていの場合、守られています。しかし、その信仰の中心にも、一種の「盗み」がある、というように私は見ることがあります。
 
私たちキリスト者は、イエス・キリストの命を奪ったからです。人間すべてが、イエス・キリストを殺したのだとすれば、神の子の命を盗んだようなものだと思うのです。倫理的にでも、それは厳しい眼差しを送るべきだと考えています。信仰的には、なおさらのことです。
 
イエス・キリストは命を捨てて、しかし復活しました。だから十字架の死はよいことでした。命を奪ったなどと考える必要はありません。――そうでしょうか。ひとつの結果として、十字架の死と復活を、私の救いだと見なすことは、当然だと思います。確かにそうなのです。けれども、それを軽く「感謝しまーす」などと受け流すことは、私は到底できません。
 
ズキズキするのです。十字架がどんなに痛かったか、惨めだったか、死の苦しみはどれほどだったのか、少しでも思う度に、いつも心臓が圧迫されるようになり、息苦しくなるのです。イエスの苦しみが、私の罪の故だと、私は信じているからです。私がイエスの命を奪ったのです。盗んだのです。いけしゃあしゃあと自分が生き延びるために、神の子を殺したのだ、と私は受け止めているからです。
 
でも、聖書はこのイエスの命を奪ったことが罪だ、で終わらせはしません。
 
私は命を再び受けるために、捨てる。それゆえ、父は私を愛してくださる。誰も私から命を取り去ることはできない。私は自分でそれを捨てる。私は命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、私が父から受けた戒めである。(ヨハネ10:17-18)
 
この三つめの文は、新共同訳では「だれもわたしから命を奪い取ることはできない」と訳してありました。救いを受ける私は、イエスから命を奪ったのではない、それはできないことだ、というのです。イエスは命を捨てた、そして受ける、この神の側のイニシアチブの許に、私はひたすらリードされるだけなのです。
 
そして、ヨハネ伝は、これを経て「命を与える」のだ、と繰り返します。しかも「永遠の命」を与える、と。ここに、救いがあります。イエスの許に行くのです。代価は要りません。
 
さあ、渇いている者は皆、水のもとに来るがよい。/金のない者も来るがよい。/買って、食べよ。/来て、金を払わず、代価も払わずに/ぶどう酒と乳を買え。(イザヤ55:1)
 
代価は、イエスがその命を以て払ってくださっているのです。イエス・キリストが私たちにすでに命を与えてくださっています。それを私たちは受けました。しかも、私の肉を食べよ、とまで言いました。
 
イエスは言われた。「よくよく言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。(ヨハネ6:53-54)
 
イエスの命を奪った、というのは、神の目から見れば与えたことになるようです。けれども、私はやはり思います。その命を私の罪が奪ったのだ、と。「盗んではならない」は基本的に倫理ですが、取り返しのつかないイエスの命を盗んだことが、私の救いになった、と突きつけるのが新約聖書だ、と私の側では受け止めています。ただ、取り返しのつかない罪であると考えたとしても、神の側では、復活が、それを取り返しのつくものに換えてしまいました。悔い改めれば罪を赦される、ということは、いくらでも厚みを以て、私たちに迫ってくるのです。

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