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聖書に「心」と訳されている語は、原語ではひとつとは限らない。感情的なもの、心臓からくるもの、理性のようなもの、魂と呼んでもよいようなもの、もし日本語で別に訳そうとすればいろいろ可能な場合がある。しかし、それほどきっぱりと分かれるとは決める必要もない場合が多く、「心」と書いておけば、都合が好いのかもしれない。
 
英語でいうと、mind,spirit,heart,soul という例を挙げると、ここで言おうとしていることをご理解戴けるかもしれない。これらは説明されていることも多いが、その説明が数学的に適用できるかどうかは、微妙である。
 
以前、YMCAのロゴマークには、「SPIRIT MIND BODY」の三つの言葉が入っていた。正章としてはいまもそれであるはずだが、その略章としての逆三角形だけのマークは廃止された。その MIND には、「知性」のニュアンスがこめられていたと思う。SPIRIT は「精神」である。英語では既定のものであるから、あとは日本語がどう対応するか、という問題であった。
 
「心」は、実に曖昧である。だが、その曖昧さが、私たちの思いのファジーさを、実は非常によく表現している、とも言える。また、「心」とは何かということを、各自がその都度自由に解釈できる、そういう利点もある。
 
聖書のように、原語がひとつのものに決まっているときには、それを曖昧な「心」としてしまうと、原語が伝えようとしていたことを、曲げて伝えてしまうかもしれないリスクはある。それを避けるためには、「心(カルディア)」とか「心(ヌース)」、あるいは「心(プシュケー)」とか示しておくといくらかよいような気がするのだが、それでは翻訳と呼べなくなるものなのだろうか。
 
「心」と言ってしまうと、後は聞き手のほうに、その意味を委ねることになる。また、西欧語の割り切り方とはまた違う捉え方も残すことになるかもしれない。「心ない」は英語だと「heartless」も使えるのだろうが、その場によってもう少し明確に表現することが多いのではないだろうか。
 
夏目漱石はその小説の題において、これを漢字を使わず「こころ」とした。これもまた、乙である。表だって自己主張をせず、何か含みをもっていることを、「心」よりもさらに伝えるような効果があるように感じる。
 
ともすれば、自分の「心」ばかり主張する世の中だが、自分の「こころ」を抑えなければならないことによって、苦しんでいる人もいる。ひとの「こころ」に無頓着で、圧力をかけるような言葉を投げかけることが日常となりかねない世相に、心を痛めている。しかしまた、それがこの自分のしていることだ、という点を排除できないこと、多分にまさにそれをやってしまっている、ということに、ますます心苦しくなる毎日である。
 
「神の御心」という用語がある。神の思いを知りたいのはやまやまであるが、それはひとにはままならぬことであろう。それでも、受難というものを深く思いたくなるこの春の時期に、「心」というものに視点を置くひとときがあってもよいと思うのであった。

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