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沈黙の声と歌

十字架と復活を語る春であったため、久しぶりの黙示録講解説教である。15章から再開し、その全体からの礼拝説教であった。
 
14章で、天使が地上に鎌を投げ入れ、神の怒りの搾り桶から溢れる血が都の外に広がった、という壮絶な場面に続くところから始まることになる。但し、ここでカメラは切り替わる。「天にもう一つの大きな驚くべきしるし」があることを、筆者ヨハネは見る。そこには七人の天使がいて、最後の七つの災いをそれぞれ携えていた。この災いは、「神の怒りがその極みに達する」ことを示すことになるのだという。
 
説教者は、よくある疑問に応えるようなひとときをもった。神の怒りが極みに達した、というのであるが、それは新約聖書の世界には似つかわしくないようにも思える。こういう怒りと裁きの神は、旧約聖書によくある。新約聖書だったら、神の愛の姿が存分に描かれている。洗足の場面にあったように、「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(ヨハネ13:1)のであった。このように、神の姿は全く違うように聖書は描いているのではないか。
 
しかし、これは誤解だ、というように説教者は語り、矛盾の解消にかかる。新約聖書では、神の怒りが十字架のキリストに注がれた。旧約聖書でも、神は人間自体に怒りをぶつけたのではないのだという。確かに罪への怒りはあった。しかし、それは人を愛するが故であったのだ。
 
詩編78編は、出エジプトからダビデの時代まで、イスラエルと神との関係を辿りながら歌われる。神はイスラエルの民を導いた。「しかし、彼らは」不平を言い、神に逆らう。神はそれに対して憤る。彼らは少しは反省するが、結局また神に反抗することになる。「しかし、神は」彼らを赦す。恵みを注ぐ。「しかし、彼らは」……この繰り返しが歴史なのであった、と歌う。これは、時を経ての怒りと愛とを描くものだったが、いま黙示録を通じて受け止めているのは、それらが別々のことではないことを伝えていると思われる。
 
箴言にあるように、子どもを懲らしめることはユダヤ文化では推奨されている。エホバの証人は、ここを拡大解釈して、子どもを折檻することを教団として教義とした。近年社会問題化して、そんなことは教えていない、とコメントしているが、信徒は間違いなくそのように受け止めて、子どもへの暴力を、救われるために必要なことと認識していた。
 
だが、子どもを甘やかしてはならない、というのも、旧約聖書に見られる知恵である。どうやらダビデ王は、その点でも失敗していた、と私は見ているが、子どもに対して厳しい態度で、教えるべき事があるのだ、というのは、恐らく万人の賛同する考え方であるだろう。
 
神が人間をそのように見ている、と言ってよいかどうかは分からない。但、神は人に対して怒りを示すことがなければ、人はだめになってしまう、という真実はあるはずだ。説教者はこのことを、「神は人の罪に対して怒る。それは人を愛しているからだ」と述べた。
 
ということはまた、別の言葉でも言われたのだが、この怒りというものは、「人の滅びを回避するための神の戦い」であった、というのである。そして、今現在懸念される「戦争」の危機について、それを人の罪だと告げ、滅びに向かうものなのだ、と語る。これは、黙示録にある獣というものに、人間がなってしまうことを意味することになる、とも。
 
今日は『沈黙』という映画について話す時間があった。すでに半世紀前に、篠田正浩監督による映画があったが、説教者は、2016年のマーティン・スコセッシ監督の映画を推奨していた。ネットの声を参考にすると、新しいほうは、分かりやすく原作をまとめているが、篠田版のほうは独自な解釈で描いているらしい。私はどらちも見ていないので、なんとも評価できないが、説教者は、遠藤周作の原作のストーリーを薦めたのではないかと思われる。尤も、映画では「遠藤らしさ」までは出せず、欧米人へのひとまずの紹介のようでもあった、との声もあるが。
 
神の沈黙という主題は、含蓄深い。「神の痛み」という捉え方も、北森嘉蔵氏により世界へ訴える力をもっていたが、この沈黙についても、遠藤周作氏の問いかけは、多くの人の胸に呼びかけるものとなったと言えよう。試練を与えつつ沈黙する神を、私たちはそこに見る。が、物語では決して神が現れはしない。「踏むがいい」という神の声を聞いたとしても、もしかするとロドリゴの側の幻想のようなものなのだろうか。
 
しかし遠藤氏としては、これは必ずしも無音の「沈黙」ではないし、幻聴であっただけだ、というふうにも考えていなかったのではないか。映画「卒業」で有名な、サイモンとガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」は、鳴り響く音も声も、不信や疎外に満ちた時代の中で、声にならない声がざわついている様を描いていたのかもしれない。遠藤氏の場合、本の題は本来「沈黙」とはしていなかったらしいが、商業上の目的からインパクトのある「沈黙」になつた、と打ち明けているという。神は「ざわつき」ではないが、神の声を聞くも聞かぬも、聞く側が語られたと聞くかどうか、そこに関わるものである、などとは言ってはならないだろうか。
 
いずれにしても、神の与える苦しみが「義」のためであったとしたら、それと同時に「愛」のために人を導くという点を、忘れないようにしたい。但、それは抽象的なことではないだろう。口先だけでいくら「愛です」などと言っても、実に空しいものだ。
 
ところで、この神の沈黙については、イエス自身がいちばん味わっている。説教者は後でそのことに触れた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」という叫びは、十字架の上の絶望などと呼ばれることがあり、この絶望感がないと茶番だ、とまで言う人がいる。だが、事はそんなに単純ではないと私は思う。確かに、それは「どうせ復活するのだから」と余裕をもっているようなはずはない。だが、だから絶望なのだ、と言ってしまうのは、あまりに人間的ではないか。イエスはただの人間だ、ということを前提にして、そう推測しているのではないか、と私は感じる。
 
つまりこれは、私たちが安易に思い浮かべる「沈黙」ではなかったのだ。小説の「沈黙」が、単純な沈黙ではなかったのと同様に、イエスが経験した神の沈黙も、声ならぬ声が、きっとあったに違いないのだ。
 
そこに勝利はないように見える。極度の悲しみと寂しさがある。だが、イエスは知っていた。三日目に蘇る、ということを。弟子たちに幾度となく、それを預言してきたのだ。苦痛に耐えられないという不安、いやもう想像を絶する苦しい思いの中であるから、その苦しさも真実、しかし父と一つであるつながりの中で、これからどうなるかも知っているのである。この心情を、一介の人間たる私のような者に理解できるはずがない。
 
私たちは、信じるのだ。この暗闇の中に、光が必ず射してくる、ということを。イエスの従い、神に叫んでよい。苦しい叫びでもよい。同時にまた、信頼の声も挙げたいのだ。説教者は、「いまや黙っておられず歌う」という言い方をとった。もはやたたえずにはおれない、という黙示録の言葉(15:4)を、握りしめるのだ。
 
黙示録の記者は、地上の暗さから、天を見たのだった。そこから、この場面が始まっていた。獣とその像に対して勝利した者たちもいた。そこにはガラスの海があった。ガラスとは何か。いまとなっては分からない。だが、何かイメージを与えるものである。美しいものだろう。そして、海である。海は、不吉なものとして見られるのが通例であった。獣すら、海から出てきた。だが、いまはきらめいている。静かにたゆとうその波が想像される。ここで、勝利者たちは、モーセの歌を歌ったのだった。
 
いったい、歌っているこの勝利者たちとは誰なのか。興味が湧く。だが、謎解きが好きならとことん探ればよいし、終わりなき追究の迷路に入ればよい。「わたし」がそこで歌うのではないのか。「あなた」が歌うのではないのか。その様をまざまざと見るのが、信仰ではないのか。その意味では、黙りこくることは、もうない。声を挙げる。聞こえない声かもしれない。沈黙の声かもしれない。だが、祈りという形で挙げられた声は、神とのつながりをつくり、やがて神の声、ラッパの音をもたらすだろう。
 
この約束が、すでに与えられている。約束は、信じるためにある。信じられない場合には、約束したとは言わない。この約束への信頼を欠いたとき、人は獣となり、自ら神となろうとするであろう。私たちは歌おう。神の裁きは、愛と共にある。勝利は決まっている。黙示録の執筆の時代は、そんなことなどとても思えないような時代だったに違いない。だが、記者は見た。見ていた。その勝利の旗を、私たちも見ている。それが、キリスト者というものだ。あの勝利の歌を、私たちも歌っている。それが、キリスト者であり、教会なのである。

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