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音楽について考えるひとつの入口

息子たちが、私のできなかったことをやろうとする。それを見るのは、頼もしくもあり、ありがたくもある。哲学に興味をもっており、とくに音楽というものについて、関心が強いようだ。同時にそれは、芸術や文化というものについて、思いを懐いているということでもある。
 
音楽は、時間と共に成立する。絵画のように、静止画像でそこにある性質のものではない。もちろん、静止画でも、それを眺める側には時間が発生している。が、対象そのものは時間をも経て表現されるものではないだろう。
 
さすれば、音楽は人間の心の内にのみ成立するものであるのかもしれない。動物たちは、音楽を聞いてそれに耳を傾けるが、人間のような心象を懐いているかどうかは不明である。もちろん、動物により聞こえる音域や聞こえ方の差異というものはあろうかと思うが、インタビューしても答えてくれるわけではないし、それを脳波で測定するというのも、解釈次第となるだろう。かといって、人間の脳波に音楽性を還元することも、眉唾ものである。
 
せいぜい、現象学的に捉えるのがよいのかもしれない。歌には心があると言われ、歌う側はそれを伝え、聞く側もそれを感じる。だが「絵心」があるのは描き手のほうだけだし、受け取る側はそれぞれ別の感情や思惑の中で絵を捉えるだろう。絵は、何かの主張やメッセージを与えることもあるし、言語化する何かをもたらすことも少なくないが、音楽は、言語化しない感情を以て揺さぶり、そして言語化できない形で、力づけ、勇気づけることも多々ある。
 
福音歌手の森祐理さんは、弟を阪神淡路大震災で喪い、その後の人生が大きく変わった。被災地で歌うことも、最初はできなかったが、それを使命として受け止めた。ラジオのゴールデンタイムに、キリスト教や聖書のことを30分にわたり語るという番組が、2014年の秋からいまなお続いているというのは、世間的に見て奇蹟であろう。
 
私は欠かさず聴いているが(すべての番組は、公式サイトでいまもすべて聴けるようになっている、これもすごい)、被災地で歌ったときの経験について、度々このように話す。「被災地で心をこめて歌う。すると、涙を流して聴いていた人が、後で話してくれる。『地震の後、悲しいことばかりあっても、涙は出なかった。でも、今日あんたの歌を聴いて、初めて涙が出た』と。」
 
音楽というもの、歌というものに触発されて、心の奥に留まっていたものが、堰を切って溢れる。それは、私たちも経験することがある。それは、ひとつの浄化であるのかもしれない。しかし、それもまた、人それぞれ、ケースバイケースであると思われる。
 
音楽が、人々の心を一つにし、つなぐことがある。それは、利用する者の悪意によっては、怖いことになる。利用する者とて、悪意で用いようとしない中で、そうなってしまうのであるから、始末が悪い。
 
こうしたことについても、まだまだ考える要素がある。音楽については、また感じるところを、記すことができるだろう。歴史的、社会的、形態的、様々な角度から考察できることが期待できる。また、自らの中から歌や演奏その他、音楽が発されるということが気楽にできることも、絵とはまた違う側面であると言えよう。
 
こんなことを息子と語らうのは、愉快である。対話は、いろいろ教えられるのがまた楽しい。音楽の実践でも、彼はなかなかの仕事をしているので、なおさらである。

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