見出し画像

立ち上がらせたのは幻

イザヤ6:1-8 
 
私イザヤは、玉座の主を見ました。それは、ウジヤ王の死の年でありました。ウジヤ王は、半世紀ほどの長きに渡り、南ユダ王国を治めました。北イスラエル王国との関係を良くし、国を安定させたといいます。紀元前8世紀のことです。イザヤから見れば、国の繁栄よりも、人間が傲慢になってゆくことが、主の民に相応しくないように見えたようです。
 
だが、今はイザヤはまだそのことに立ち入ってはおりません。主に見出され、預言者として立てられようとしています。まだ若い頃の出来事のはずです。その後40年間ほど、預言者として活動したということなので、ここに描かれたイザヤは、まだほんの若造です。聖所にいたかのようにも見える叙述ですが、すべて幻の中の出来事なのでしょう。
 
高く挙げられた玉座の主を見たというのは、主観的なものと思われます。セラフィムとは、燃える主の使いでしょうか。脚のように対になって、六つの翼があるといいます。三組の翼があるのです。「聖なるかな」という呼びかけが三度連続していますが、これを三位一体の証拠だなどと解釈して興奮した昔人の想像力には脱帽します。
 
神殿は、この呼びかける声によって揺れ、煙で満ちました。これを見たイザヤは、神を見た者は死ぬという言い伝えを信じていたので、とんでもないことになったと怯えます。しかも、自分の唇が汚れていることをここで気にしています。不思議なことで、一つのポイントです。セラフィムの1人が祭壇の火から炭火を寄越してイザヤの唇を清めます。
 
熱くはないのかしら、などと無粋なことは言いますまい。イザヤの罪がこれにより覆われたことで、イザヤは第一歩を歩み出すことになります。イザヤはこのとき、主の声を聞きます。有名な派遣の宣言です。イザヤは「ここに私がおります」と応えました。これもまたポイントです。多くの召命を受けた者が、この言葉を受けて立ち上がったのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?