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自然との関係

幼稚園が廃れている。午後2時にお迎えというスタイルに、働く親が対応できなくなってきているのだ。夕方まで預かる保育園に、次々とシフトしていく。夕方に迎えに行けるならまだよいほうで、夜にずれこむこともあるようである。
 
幸い、私は2時のお迎えができた。車で行く必要のあることもあったが、たいていは、歩いて往復できた。これは恵まれていた。途中、舗装された道路を通ることもできたが、たいていたんぼ道を歩いた。
 
子どもと手をつないで歩く機会は、そんなに長くない。できるだけ手をつなぎ、安心を体感してほしいと思う。そして、たんぼ道とくれば、やはり春がうれしい。日に日に暖かくなるというのもそうだが、黄色・白・赤と、花々が美しく着飾ってゆく。特に帰り道は、時間に迫られない限りは、立ち止まることができる。レンゲを摘む、オオバコで角力をとる、ナズナを振って鳴らす。スズメノテッポウは笛になる。笹の葉をピューンと飛ばすのも楽しい。
 
時にカエルも捕まえる。田んぼにヘビを見ることもあった。いわゆるジャンボタニシも、そのうち這い回る。秋にはバッタもトンボも賑やかになる。コオロギは容易に捕まえることができるから、手の中でもぞもぞする感覚を体験することもできる。もちろん、子どもに、である。
 
後に息子は、この体験をしみじみ思うことになる。中学に上がったときだっただろうか、こうしたあたりまえの自然体験が、ほかの子はあまりないということを知り、生き物とのふれあいをもてたことを、ありがたい、と思ったのだそうだ。
 
他の子と比較はしないものの、私は、自分の狙いや願いというものが、達成されていることをうれしく感じた。
 
自然と触れあうことは、何ものにも替えがたい経験だと私は思う。私の小さなころは、親に教えられずとも、友だちと当たり前のように、自然と遊んでいた。空き地の桑の実も美味しかったし、野いちごも囓っていた。
 
けれども、果たしてそれが「自然」であるのか、と問うこともできる。たとえば人工林は、ひとが植えたものだ。それでも「自然」であるのだろうか。日本の原風景だとも言われる里山の風景も、ひとが手を加えてつくりだしたものではないか。雑草ひとつにしても、ひとが整備したあぜ道に生えている。ひとの気に入らない場所に生えた草は、刈り取られてしまう。
 
自然という言葉を、私たちはさしあたり「生き物」であるように理解できる。だが、それは必ずしも、人間に対立するものではないし、人間の一部にもなっている。あるいはまた、人間が自然の一部である、と捉えるべきであるともいえる。自然との関係は、漠然と感じているままで十分であるとは考えないほうがいい。
 
しかし、地球や自然といったものは、人間に比較してあまりに巨大であり、莫大な力をもっている。そうした普通の自然が、時に人間に対して牙を剥くことがある。
 
あれから13年。あの日テレビ中継で見た、押し寄せる波を忘れることはできない。東北の新聞に先日、「宮城県内の小学6年生の17.7%が、東日本大震災の発生日を正確に答えられなかった」というコラムがあった。実際に体験していないことについては、知識として学習するしかないのだ。
 
まだ津波が届いていないとき、上空からの映像に、海岸近くを走る車が映っていた。あの人は、助かったのだろうか。もちろん映像などとは関係がなく、波に呑まれていった人々が何千人何万人といる。肉親の手が離れ、消えてゆく家族を見たという人の心はどんなふうか、想像するだけでたまらなくなる。遺された人の苦しみは計り知れない。壊れた町の姿は、いくら建物が新しくなっても、心から消えない。否、実際まだ壊れたそのままになっている景色もたくさんある。
 
水は重い。縦横高さ1メートルの水は1トン。乗用車くらいの重量である。それが襲いかかるとき、ひとはもちろん、ひとの造った文明も文化も、ひとたまりもない。
 
新聞社が報道した、震災の記事や写真が出版される。能登地震の写真集は購入したが、いまのところ新聞そのものを集めたものは出版されていないようだ。新聞報道の記録は、生の情報が盛り込まれ、後々見ても参考になる。阪神淡路大震災と東日本大震災、そして熊本地震について、私は買い揃えて、事ある毎に見ている。
 
阪神淡路大震災も能登地震も、真冬だった。東北の3月も、殆ど冬であった。春を待つ思いは、ただの暦だけのことではないだろう。春の花が咲くのは、まだ遠いかもしれない。今回は半島という地形が、援助の手を阻んでいるともいう。中井久夫先生が指摘した心の問題への対応が、なんとか活きて働いてほしいものだと願っている。この場所からは、わずかな支援金を提供することと、祈ることしかできないのであるが。

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