見出し画像

思い込み

今月8万円小遣いをもらった。気が大きくなってどんどん使ったら、最初よりも4万円減ってしまっていた。いくら使ったのだろうか。
 
もうすぐ五年生になる、勉強好きな面々。分からない。大きな声で4万円、などという。後にもうすぐ中三生となる生徒たちに同じ質問をしたが、これも4万円という返答。私は驚いた。
 
進学塾に勤め始めたころの勢いから、年々言語能力が落ちていることは分かっていた。だが、この数年、それが加速している。塾側も、以前使っていたテキストが使えなくなって、オリジナルで、実に生やさしいテキストに変えてきた。だが、その生温いテキストの文章が、このように読めない。実際は、グラフがあるところから最初のような思考を経て答えを導くものなのだが、その思考自体が壊滅している。
 
確かに、私の出題は若干曖昧である。「最初」というのが、小遣いをもらったときを示す、と彼らが思いこんだのも、無理はない。だが、それだったら「4万円減っていた」と答えを言ってしまっているわけで、そもそも問題にならない、ということに思いを馳せる必要はないだろうか。また、それだったら、「最初より」という言葉を使うものだろうか。小遣いをもらった、という行為を示したのちに告げた「最初」という言葉が、もらった後のときを指すはずがないのだ。わざわざ「最初」というフレーズを入れたのは何のためなのか、言葉に対するセンスがないのだ。小学生なら責められないが、中学生にしてもそうなのである。
 
だが、どういう情況でどういう言葉をどのように用いるものか、そうしたセンスがもてないままに過ごしているのは、子どもたちばかりではない。
 
ペトロがイエスを諫めたシーンがある。イエスが言う。私は十字架につけられて死に、復活する、と。するとペトロが、そんなことがあってはならない、と興奮するのである。
 
忘れられない説教がある。聞いとらんのか。復活すると言ったやろ。そんなことがあってはならんのか。
 
キリスト者も、聖書の中で妙なところだけ聞いて、思いこんで、勘違いをしているかもしれない。ちゃんと書いてあるやないか。目に入っていないのか。
 
4万円使ったのだ、と堂々と胸を張って言っているのかもしれない。思い込みに気づかせるものは、自分の外から来る。時に、それは他者である。他者が、違うよ、と指摘してくれる。だが、信頼する他者でなければ、私たちは容易にはその指摘に従えない。昔はたぶん、世間という他者の眼差しに、それなりに素直に従うものであっただろうが、どうも近年は、他者は信頼の置けないものとなってきているように見受けられる。気の置けない間柄ならよいのだが、信頼の置けないというのは、ぎすぎす・ぴりぴりした関係になる。
 
キリスト者も、けっこう他人に対しては頑固である場合が多い。が、それが神に対しても頑固であるようになると、進みゆかなくなるであろう。神から来るものは「恵み」というが、恵みを受けるために、胸を拡げておくことが望ましい。
 
そのためにも、聖書の言葉を適切に受け止めることができるような、言葉の力が育まれているようでありたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?