見出し画像

非常識で迷惑な大人たちの姿

電車の中で騒ぐ人間は嫌いである。他人に思考をさせないからである。耳栓でもしているという自衛方法もあるが、誰もが耳栓をもたなければならない、という考えは間違っていると思う。大きな声で騒ぐ者は、他人をなんとも思っていない。
 
お年寄りの中には、ある程度仕方がないことがある。耳が遠いために、声もいくらか大きくならないと会話すらできないのだ。また、子どもが泣くことについては、私は全く何も感じない。子どもを育てる親の苦労は、自身がよく分かるからだ。それに、子どもの泣き声は、私の思考を妨げない。
 
その男4人、女4人のよく喋るグループは、乗る駅のホームから一緒にいた。夜遅い駅のホームで、大きな声で騒いでいる。若者ではない。壮年あるいは老年と言ってよいほどのメンバーである。事の善悪も弁えていて然るべき年代であるが、エスカレーターを降りてホームに入ったところで立ち止まり、輪を作って騒いでいる。
 
その輪の中央には、エスカレーターを降りたところなので「ここでは立ち止まらないでください」とくっきりと警告が書かれている。それを囲んで、大声で話していた。
 
もちろん彼らとは別のドアから乗車した。すると彼らはこちらの車両に乗り、あまつさえ、私の座った席のほうに近いところに向かって来た。ドアのところで、また大声で楽しそうに話している。私のほかの乗客も、「これはうるさい、誰だ」と振り返って、その声のほうを確かめていたから、不快に思ったのは私だけではない。
 
私が座ったのは、向かい合わせで4人がけの椅子だった。乗客は満席ではなかったので、私の横と向かいは全部空いていた。向かいは、いわゆる優先席である。私はいつものように、本を読み始めた。
 
すると、そのうるさい中高年グループのうち、2人が来て、私の向かいに座った。すごいタバコの臭いがした。酒の臭いは、マスク越しには分からなかったが、酔っ払ってでもいないと、ここまでのことはできないだろう、と思われた。
 
そして、その2人だけであったが、同じように大声で話し始めた。離れていてもうるさいのに、目の前でやられては、本を一行も読めそうにない。私は立ち上がり、別の席へ移ろうとした。あるいは、席が空いていなければ立ってもよかった。
 
すると、向かいに座った人が手を出して、私に触ろうとして、言った。「あ、いいですよ」
 
もちろん私は最初の予定を変えなかった。ただ、その言葉が頭の中でリフレインしていた。「いいですよ」とは何のことなのか。私は不愉快で、本が読めないから席を替わろうとしたのだ。何が「いいですよ」なのか。もちろんこのときの「いい」は、「席を立つ必要はありませんよ」の意味である。
 
気づいた。ほかの仲間がいるわけだから、私がそこにいなければ、仲間がさらに座ることができる。これは親切にも、気を利かせて席を空けてくれたのだ。その人は、そんなふうに考えて、「いいですよ」と言ったのではないか。
 
たぶん、それしか可能性はない。何を言っているか。勘違いも甚だしい。私は呆れた。
 
自分が非常識なことをして、不愉快な思いをさせているから、相手が逃げた。しかしそのことを、相手が自分たちに優しく譲ろうとした親切心からしてくれている、と考えたのであろう。なんとも能天気な話である。どこまでも、自分のしていることに気づかない愚かさである。
 
と、私はそこで教えられた。
 
その時、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」(ルカ23:34)
 
クリスチャンも、けっこう能天気である。敬虔なクリスチャンを気取っているわけではないが、他人がそれなりに敬意を払っているように感じることがある。そして、親切にしてくれることがある。
 
けれども、それは違うのではないか。不愉快な思いをさせているが、相手は親切にそうしているのだ、などと勝手に解釈している、ということがあるのではないか。あの、酔っ払いのような非常識な大人たちは、もしかすると、クリスチャンの普通の姿であるかもしれないではないか。
 
イエスの言葉を、いつの間にか自分たちが常にイエスの味方につき、イエスを理解しているような側で読んでいたのではないか。しかしあの弟子たちも、イエスのことを、イエスの言葉を理解はしておらず、尻尾を巻いて逃げ去ったのではなかったか。私たちはどこまでも、その程度の弟子でしかないのではないか。
 
もちろん、聖霊を受けて弟子たちは変わった。では私たちも本当に変わったのか。変わったと自負するばかりで、実は、自分が何をしているのか、分かっていない、ということはないのだろうか。
 
イエスの受難を思う時の中で、出会った経験であった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?