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隠れた差別感

エフェソ2:11-22 
 
「無割礼」とイスラエル人が呼ぶとき、そこには侮蔑の意がこめられていたと思います。ダビデが、ペリシテ人のことをそのように呼んだことがあります。今、この書でエフェソの教会の人々に、この言葉が向けられています。軽蔑の意が隠れているのかどうか、分かりません。でも、この箇所には、根深い差別感覚が含まれているような気がします。
 
イスラエルの優越は、神との契約に基づくと思われますが、異邦人にあるのは希望のない人生だと決めつけています。もちろん、神の国の希望という意味を考えていますから、書いた本人に悪意はないと思います。しかし、キリストにあっていま「近い者」となったというくらいで、神にやっと近づいてきたね、という声のようには聞こえます。
 
平和の主キリストが、敵意という隔ての壁を取り壊し、遠いエフェソの人々も、イスラエルと同じ一つの霊によって、二つ別のものであった人間を神の前に一つにされたのだ、というふうに考えています。「よそ者」であり「寄留者」であったということは、事実だと言って憚りません。もちろん、いまは同じ民だということではあるのですが。
 
しかしやはり、異邦人に対して、どうにも上から見下ろすような視線を感じてしまうのは、逆に私の偏見なのでしょうか。「聖なる者たちと同じ民」になれたのだ、などというのも、なんだか恩着せがましい気がします。パウロだったら、現場で親しく交わったのだから、こんな見え方はしていなかったのではないでしょうか。
 
確かにパウロは、エフェソで酷い目に遭いました。しかし、だからこそ、救われた人々の痛みも分かるのてはないかと思います。君たちだけ救われて他の同胞は滅びるのだ、などと敢えて言わないでしょう。「神の家族」は選民と異邦人の双方から伸びたアーチが、頂の親石なるキリストにより支えられる構造に建てられてこそ成り立つと思うのです。

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