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目を覚ますことと祈ること

説教に「まくら」などという言葉を使うのは不適切かもしれないが、説教者により、いくつかのタイプがあるように思われる。まず人間的な挨拶から始めるタイプ。人への気遣いからかもしれないし、講演会ならばそれでよいかもしれない。また、いきなり何かの話題から入るが、本題とは違うところから入るタイプ。新聞のコラムに多い。そこからやがて、本筋へと繋がる脈略が生じる。落語では最もポピュラーな入口かもしれない。そして最後の場合は、聖書の世界からいきなりドスンと入るようなタイプ。聞く人間への妙な配慮はどこにもない。また、回り道をするような遊びもない。いきなり本題から入る方法である。
 
どれが良いとか悪いとか、安易には言えないだろう。その話題やTPO、設定時間によって使い分ける話し手もいることだろう。今朝の説教者は、しばしば最後のタイプの入り方をする。今日もそうだった。イエスの十字架と復活、それから再び来るという約束があるが、それは「私たちのため」である、というところからズバリと入ってきた。そのため、「霊的に眠り込んでいてはならない」と言い切ったのである。これは、論説文でいえば、もう頭括式な形式と呼んでもよいくらい、今日のまとめとなっていた。だが、本当は双括式であった、その最後には、これに重要なものがつながってくることになる。
 
イエスは弟子たちに、何度でも「目を覚ましていなさい」と言った。実際に、眠りこけていたという場合にも、それは言われた。慢性的な睡眠不足で、つい寝落ちしてしまうことのある私には、グサリと刺さってくる指摘である。だが、これはひとつのメタファーとしても通用する。それが、説教者が最初に告げた、「霊的に眠り込んでいてはならない」という言い方が示すものである。
 
これもまた実に痛い。自分では起きているつもりなのだ。だが、事件のほうも起きている。それに気づいていないわけだ。あるいは、兆候というものが確かにあったのに、それが見えないでいたために、後からそれが露呈したときに、何故あのとき気づかなかったのか、自分は眠りこけていたではないか、と後悔するのである。
 
ある教会が破壊されたとき、それを痛感させられた。後からその教会に加わった私は、皆が毎度執事に投票するということで、その人物に私も投票していたのだ。ところがこれはとんでもない人間だった。詳述はしないが、教会を破壊してしまったのだ。後からその人物が連日投稿しているツイートが分かり、それを見ると、自己愛の塊で、信仰心など微塵もないことが判明したのである。私も、あることでその人物から攻撃された。それで、この人は何かおかしい、と感じて調べ始め、ツイートを見つけたのだ。私も投票をしていたわけだから、正に眠りこけていた、ということを痛感させられたのである(私たちはそこから逃げた。だが、残された方々が懸命に立て直したことを付け加えておく)。
 
イエスはルカ21章で、終末の預言をしている。これはマルコ(13章)にもマタイ(24章)にもあるもので、「小黙示録」と呼ばれることもある。いよいよ終末ということで、事が起こり始め、多くの人の目にも、世の終わりが見えてくるのであるが、その前に、ちゃんと兆候があるというのである。これに気づけるようにしておけ、ということであろうか。
 
ぼうっとしていると、終末は、不意に襲ってくる。それを見抜く知恵も必要だろうが、簡単に誰もが気づくわけではない。ただ、聖書はそれを予告しているわけで、私たちは聖書をよく読み、しかし浮ついたり慌てたりすることなく、落ち着いて、与えられた一日一日を大切に生きてゆくしかないのである。
 
説教者は、そのことの確認に、しばらく時間を費やした。いろいろな例をここに忠実に再現することは控えよう。ただ、世の終わりもさることながら、いつ訪れるか分からない自分の終末というものへ、徒に怯えるようなことなく、聖書が告げていることを信頼し、それに従う生き方を冷静に務めるとよい、という方向で、一つひとつ語っていたような気がする。
 
同じルカ伝の24章には、復活後のイエスが、二人の悲嘆する弟子たちの前に現れて、復活を解く、美しい物語がある。ルカ独自のものである。説教者はその風景を、聴く者の脳裏に再現させる。そこには、心が鈍くなっていた、と自分たちのことに気づく弟子たちの姿があった。イエスの言葉を、それまで聴いていると自分では思っていたけれども、実は聴いていなかった、とハッとするのである。だが、彼らは別のことにも気づく。あのとき、自分たちの心は、燃えていたではないか。今にして分かる、あの燃えていた心は、何かを感じていたのだ。言葉にできないけれども、そして自己意識というものはなかったけれども、自分の心に、神が働きかけていたことを、遅ればせながら、覚るのである。
 
説教者は、思い起こさせる。心が熱くなった経験があるからこそ、人はキリスト者となったのではなかったか。――これに対して、アーメンと応えることができるだろうか。どうも最近はぼうっとしていたかもしれないけれども、確かに自分にはそういう時があった。そう言える人は、まだ幸いなのかもしれない。中には、それのない人もいると思われるからだ。だが、信徒として教会にいる分にあっては、それはそれで一向に構わない。問題は、それが何もなくても、何をどう間違ったか、牧師などという立場になってしまった者である。これは不幸である。そういう者の話す「講演」を毎週聴かされる会衆も不幸だし、偽りを続ける当人は、もっと不幸な運命にあると言えるだろう。
 
説教者は、再臨のキリストに備える心理をも描いてくれた。人を愛せない自身の自覚が、絶望を呼ぶ経験を、私ももった。だが、そこにイエスが現れた。私は赦され、救われた。そのような過程が語られるのを聞くと、私はやはり自分だけの特殊な体験ではなく、それは救いへの道として、神が確かに導いていたことなのだ、と安心する。
 
NHKのチコちゃんというキャラクターは、レギュラー番組となって、すっかり全国に定着した。乱暴な口の利き方に、昔だったらPTAからのクレームが来ただろう(来たかもしれない)が、「ボーっと生きてんじゃねえよ!」という決め台詞が定番隣っている。というか、サブタイトルに、その言葉が英語で入っている。
 
Don't sleep through life!
 
英語では、もっと別の表現の方が適切だろう、というような声もあるのだが、この番組が付けたサブタイトルは、なかなか教訓的である。「生きている間ずっと眠っているなよ」となると、案外この「目を覚ましていなさい」という言葉を、私の胸にグサリと刺してくるもののように聞こえてくるのである。
 
では、目覚めているためには、どうすればよいのか。自分で気づかないものに気づけ、という命令には、無理がある。気づかないから気づかないのであって、さあ気づこう、と思って気づくことは、基本的にできないのである。
 
そこで、いよいよ最後の大切なところへ流れ込んでゆく。どうすれば目を覚ましていることができるのか。説教者は言う。「祈るのです。」
 
イエスの祈っていた姿を思い起こさせる。神の方へ心を、魂を、全身を、向けるのである。説教者の言葉の中に、「思いを神へ戻す」というものがあった。これは、私は考えたことがなかった。つまり、気づかされた。自分の思いというものが、自分だけのものであるとか、自分から生まれたものだとか、私たちは常識的に考えている。しかし、ここで「戻す」という言葉が使われた。
 
恐らく、この世のものに向かっていて、そこに囚われていた自分の関心や思いというものを、神へと方向づける、ということが、言いたかったことではないかと思う。「罪」という語は元来「的外れ」というニュアンスから生まれた語ではないか、と言われているが、ここで確かに羅針盤が、神の方にぴたりと止まるようにするべきなのだ、という点に気づかせたかったのだ、と。
 
だが、私は、もっと別の意味をそこに読み込むこともできるような気がしていた。私が考えること、願うこと、求めること、あるいは感情的なものもすべて含めて、「私の思い」と称してよいようなものがあるだろう。だが、私が神から創造され、命を与えられたのであるならば、その「私の思い」もまた、根源的に神のものであったはずのものである。それを私は汚した。私に生まれた自我がそうしたのか、私の罪がそうしたのか、その辺りはいまは確定しないにしても、せっかくもらった「思い」というものを、私がすっかり歪ませてしまっていたのだ。だが、その歪みを、「赦し」ということにより矯正したのが、イエス・キリストであった。莫大な犠牲を払い、創造主が痛みをもって実行した、あの救いの業によって、「私の思い」は清められた。もはや私だけの、私中心の世界観の根源となるような「私の思い」であることが、できないのではないか。それを、本来の神のところへとお返ししてはどうか。「私の思い」を「神に戻す」のだ。
 
説教者は、指針を神へと戻すこと、針路を神へととることを、「祈り」というものの本質に構えたのだと思う。それが「信仰」だ、というふうにも捉えた。「信仰」はかなり抽象的なものであるが、「祈り」は、いくらか具体的になる。具体的に「祈り」をすることで、私たちは「信仰」を知るのである。その「祈り」は、「目を覚ましている」ことによってこそできるものである。この「祈り」によって初めて、人が目を覚ましていることが意味をもつ。ぼうっと気づかないでいることから免れただけでは、まだ大切な目的は達成されていない。神の方を向くこと、神と魂において結びつくことが求められる。それが「祈り」なのだ。だからルカのイエスは言っている。「いつも目を覚まして祈りなさい」(21:36)と。
 
これに加えて、私は、解釈としては間違っているかもしれないけれども、私の上に投げかけられた挑戦を受けたような気持ちになっていた。「私の思い」を「神に戻す」ことの内に、「祈り」を感じていたのである。
 
神に向けて祈る、それもすばらしいが、どこか他人行儀である。神と差し向かいで祈る、それは確かに必要なことだが、私の思いはそのとき、いわゆる御心と対決するような恰好になっている。神の前に対峙するとき、私は神とある意味でぶつかっている。そこで、もう「私の思い」というものが神から離れたものとしてここにあることを放棄して、神にお返しするようにしたい。つまり「神へ戻す」のである。
 
「目を覚ます」というのは、仏教的には「覚り」を意味する。実に「仏陀」とは「目覚めた者」という意味なのだ。キリスト教をこのことから解釈するようなことは、もちろんするべきではない。だが、何かの比較に用いることは、必ずしも禁忌とされるべきではないだろう。
 
私たちは、無理矢理眠り込めないように自分に鞭当てながら、あるいは戒めながら、目を覚まして、そして必死で祈るのだ――そんなことを、イエスは求めたのだろうか。むしろ、私の思いを神へ戻すような祈りによって、私たちは目覚めた者でいられるのかもしれないのではないか。「目を覚ます」ということは、原動力や原因の側に立つのではなくて、むしろ結果の側にある、と見ることもできるのではないか。
 
その意味では、この説教は、少し変形した姿ではあるが、頭括式であったのかもしれない。

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