見出し画像

誰に呼びかけるのであっても

詩編100:1-5 
 
「全地よ」と呼びかけた相手は、人のことなのでしょうか。それとも被造物すべてであるのでしょうか。さしあたり人なのでしょうが、「主が私たちを造られた」というとき、「私たち」がどこまで及ぶのか、考えさせられます。この詩は、ダビデの作だとはされていません。「私たち」についても、どう受け止めてよいか難しいものです。
 
でも、イスラエルだけに対する呼びかけではないように思えてなりません。喜べ、との声がまず出されています。主に仕えること、主の前に出て行くこと、これが喜びの内になされるのです。この主が神であることを知れ、と言います。私たちは主から造られました。このときの「私たち」は、人間一般のことか、万物がそうなのか、判断に迷います。
 
それとも、この「私たち」は、イスラエルだけを指すべきだったのでしょうか。だとすると「主の民」という言葉が用いられている理由が納得できます。そして私たちは主の牧場の羊としてのアイデンティティをもつことになります。弱い集団であり、自分たちだけでは、どちらへ向けて歩めばよいのか分からない、それが主の民イスラエルです。
 
さあ主の門に進もう。主の庭に入ろう。そこは神の国です。そこへ招かれたのです。今度は、先ほどのように「喜べ」とは言われていません。「感謝せよ」に変わります。神の国へ招き入れられることについては、ひたすら「感謝」しかないのです。そうして、褒め称えるのです。主の名を褒め称える、これを忘れた教会の祈りも実際あると思います。
 
自分では気がつきません。主と結びついていない魂からは、こうした感謝も賛美も湧き出てきません。しし、主とつながる者たちの祈りは違います。主の恵みに、心が震えます。主の慈しみが、心を揺さぶります。その恵みと慈しみが、とこしえにありますように。そう祈りましょう。主の真実は、人の世がある限りずっと続くのですから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?