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説教と聖書

礼拝説教を重んじるボーレンは、聖書朗読はどうしても必要であるわけではない、とその『説教学Ⅰ』でしきりに主張している。他方、聖書そのものが神の言葉であるから、その朗読こそが命である、と言う人もいる。ボーレンは、説教がその都度神の言葉となる、という方向で説教を見ている。それは、語る者がどうであれ、という辺りも考察しているから、必ずしも理想的な説教者を想定しているわけではないようだ。
 
それを読んでいて、なるほど、と思わされたことがある。
 
信仰の経験がない、と見なさざるをえないような、どうしようもない人物が、どういうわけか「牧師」になって説教をしていることが現にある(複数知っている)。その「説教」のスタイルは毎回同じである。まず世間の話題や教会のトピックを少し取り出して気を惹いた後、選んだ聖書箇所の言葉を、少しずつ取り上げ始める。「……」とあります、という言い回しを繰り返すのが特徴である。聖書にあることを自分は言っているぞ、これは神の言葉を言っているのだぞ、とアピールしたい心理であろうと推測する。
 
そして、その言葉の意味を、頑張って調べて、解説する。これはこういう意味です、と、解説書だかネットだか知らないが、よい説明があればそれを上手に用いるのだ。「……」とあります、と持ち出した聖書だが、ふつうは意味が分かりにくいだろう、解説してあげるよ、それはこういう意味なのだよ、ボクは勉強したんだよ、という雰囲気が漂う。
 
「……」とあります、これは「……」という意味です。このような言い方が延々と繰り返される。時折、政治の悪口や社会問題を言って、聞き手の共感を得ようとすることもある。そして最後には、「私たちも(イエスさまの言ったように)……しましょう」で結ぶ。呆れるほど、毎回毎回、こうした調子で、当人は「説教」をしたつもりになっている。
 
しかし、その「……しましょう」を、言った当人もどのくらい本気に考えているか、分からない。教科書的な表現をしてみた、という程度にしか考えていないのではないか、と私は想像する。三浦綾子さんは、生活の端々で、牧師の説教の言葉を真摯に受け止めて、わずかなものも盗まず、ごまかさない生き方というものを見つめていた。「……しましょう」と語った本人が、それほどの思いをこめて語ったかどうか、殆どの場合それは怪しいと思う。ここで例に私が挙げている人の場合、私の見る限り、道徳の教科書の建前を語り、よいことを話した、という程度にその場限りの綺麗事を口にして、格好つけた、ということ以上のものは全く感じられなかった。
 
だがそれは、聞くほうも、これは建前だ、と了解しているからこそ、こういう人に毎週講壇で話すことを許しているのかもしれない。もしかすると、聞き手のほうも、そういう「信仰」なのかもしれない。毎週繰り返されるこのような有様を、ありがたがって聞く人もいるかもしれないが、たいていは、心に何の印象も残らず、ああ今週も礼拝を済ませた、という満足だけが残るばかりだ。
 
「……しましょう」でない終わり方もあるようだ。私たちはどうしたらいいでしょうか、で終わるようなこともあり、こうなると、もう完全な迷子である。せいぜい「……したいと思います」や、「……することができます」程度しか話は発展せず、主語はあくまでも人間のままに留まる。神と会ったことがなければ、結局その程度の言い方しかできないわけである。
 
聖書から語った、と、当人は思っているかもしれない。しかし、それは勘違いである。この人は、聖書を利用しているだけである。聖書を利用してコメントを載せ、「~しましょう」というような、言いたいことを正当化しようとしているだけである。
 
むしろ、聖書の言葉を権威づけに用いず、ある事柄について、人間世界のこと、私たちの疑問に思うこと、違う視点などを取り上げ、表面だけの問題とは考えず、深く考えるような機会を、まずもつ。そういうメッセージを、私は語りたいと思っているし、実際そういうふうに書き綴っている。尤も、私のメッセージは、語る原稿ではなくて、読むためのものと捉えているから、もし実際に語る機会があるとすれば、書いたとおりに話すことは、まずない。その場の対象や霊の流れなどを感じつつ、相応しい語り口調を考え、内容も端折ったり付け加えたりして、比較的自由に語るはずだ。
 
テーマは、一つの言葉でもいい。時に哲学的に、時に宗教的に、もっと社会的であってもいい、いろいろ考えていこう。もちろん、聖書の言葉については適宜取り上げ、一定の理解を準備しておく。ただ、聖書の解説書にあるようなことを延々と述べるようなことはしない。テーマと絡めることを常に考えている。
 
そうして、目的は、そのテーマについて考察する、というのではない点が重要である。つまり、いろいろ考えてきた、見てきた、そのことによって、聖書そのものを受け取ること、それが目標なのである。結局、聖書の言葉が、あなたに命を与えるように、あなたがそれにより生き生きと輝くように、ということを願っているのだ。
 
そしてそれが、神を礼拝することである、と私は信じている。私たちが神を懸命に礼拝するのではなく、すでに神のほうが、私たちを信頼して、言うなれば私たちに仕えてくださっていた。神が私たちをサービスしたのであり、奇妙な言い方だが、神が私たちを礼拝したのだ。神が私たちを生かしてくださったのであり、そうして命を与えてくださったのだ。私たちはそれにレスポンスするくらいのことしかできない。だがそれが、神が喜んでくださる礼拝であるはずだ。神を喜ぶ礼拝であるはずだ。
 
だとすれば確かに、ただ単に聖書を朗読するのが礼拝だとは言えなくなるだろう。私たちが深く思いを巡らすことによって、聖書の言葉が光となって私たちを照らし、聖書の言葉の力に気づかされるのが大切なのだ。それは、まさしく説教のなせる業であろう。聖書を利用して人間にとり分かりやすい「まとめ」が望ましいのではない。人間の知恵を働かせて心を備えて、聖書の言葉そのものが迫り来るようにするのだ。説教は、その意味で、聖書そのものとは別の形で、神の言葉となる。否、神の言葉の出来事となるのである。

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