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伝えたいこと

使徒2:14-24 
 
聖霊が降った。その後のことです。これは酔っ払いに違いない、と集まってきた人々が言ったため、それにペトロがすぐさま反応しました。「声を張り上げ、話し始めた」のでした。ペトロ自身「聖霊」に満たされ、「霊が語らせるままに、他国の詞で話しだした」うちの一人であったため、いわばしらふに急に戻ったような情況のように見えます。
 
ヨエル書を引用して、こんなにも落ち着いて理路整然と話せるものなのでしょうか。そんな疑問も尤もです。しかし、これはミュージカルだと理解すると、どうでしょうか。舞台で皆一糸乱れぬありさまで躍り、台詞は見事な音楽とコーラスで聞かせます。この用意された舞台に感動してよいなら、ペトロの説教にも大いに感動してよいはずです。
 
また、舞台に人生の真実を見出すことがあってもよいなら、ペトロの説教に人生を見出すことも、当然できるわけです。当時の信徒を励まし、次の世代へ伝えるべきことを教えるためにもたいられたのだとすれば、まことにこの芸術的シーンはすばらしいの一言に尽きます。こうやって神の霊が降り、そこにいた一人ひとりに注がれたのでした。
 
ペトロは、イスラエルの人たちに、「これから話すことを聞いてください」と言いました。教会の人々、引いてはいまの私たちへ向けて、これを言っていることになります。ナザレのイエスは「神から遣わされた方である」と言い、50日前に死刑に処せられ蘇った方を思い起こさせます。あなたがたが殺したイエスである、と突きつけます。
 
律法を知らないローマ人にはりつけにさせたのは、あなたがたではないか。しかし、復活した。復活させられたのです。イエスは死に支配されないからです。ペトロは冗舌になります。この後、詩編からダビデの証言として、イエスの事実を説明します。もちろん、これもまた完全に用意された演出です。読者に強烈に自覚させたいのです。
 
この長い説教は、あなたがイエスを十字架につけて殺した、という点を強調します。イエスが復活した方だ、という福音はもちろん大切ですが、イエスを殺したのはあなただ、という点をスルーさせてはなりません。むしろ、聖霊が注がれて救われるためには、こちらのほうが中心である、とも言えます。聖書は、それを伝えたいのです。

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