見出し画像

呼びかけよとの声

イザヤ40:9-11 
 
「慰めよ、私の民を」と、40章はそれまでの様相を変えて、イザヤの名で新しいメッセージをもたらします。この民に呼びかけよ。主の言葉が飛びます。誰が誰に向けて呼びかけるのでしょうか。主がまず、預言者に呼びかけています。それから、預言者がイスラエルの民に向けて呼びかけています。神の言葉はこうして私たちに届きます。
 
神の言葉はとこしえに立つ、そんな有名な言葉が聞かれる中、この「高い山に登れ」と、あまり注目されない呼びかけであったかもしれません。これは、イザヤ自身が聞いたものであるのでしょう。さあ、この知らせをエルサレムに、ユダへ、告げ知らせるのだ。そう主から受けたのです。この神を見よ、あなたがたの神だ。
 
主が統べ治めるから、安心するがいい。主が報われる。このニュースを高い山に登って語るというのは、イエスが灯りを隠すことができぬ山の上の町に比したこと(マタイ5:14)を思い起こさせますが、現代風に言うならば、東京スカイツリーのような電波塔を想定してもよいのではないでしょうか。全地へ発信する力をもつ塔です。
 
すると、その電波を受信する受信機が必要になります。この知らせを受ける側に、一定の装置と準備が求められます。誰へ向けても、メッセージは伝えられているものの、それを受け取る側のあり方が求められるのです。この主は、あなたがたを懐に抱くでしょう。イスラエルを小羊として抱きしめ、乳を出す母の前へ連れて行くことでしょう。
 
神の民は、羊飼いなる主が飼う者たちです。そして神の証印が与えられています。聖霊という証印です。だから、主の目から見落とされるはずがありません。一人ひとり名を呼ぶ羊飼いの愛情によって、守られています。こうして、主は一人ひとりに呼びかけています。この呼びかけは、集団ではなく、一人ひとりの魂に響くようになります。
 
いまや、聖書は個人の手に渡りました。預言者の声は文字となり、文字からその声が聞こえてくるようになりました。この文字は、人を殺す文字ではありません。人を生かす主の言葉です。神の言葉となった語りは、神を礼拝する場に響き、救われる一人ひとりの魂に呼びかけます。私たちはそれを主日毎に受け、それに応えて歩むのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?