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リスナーあっての完成

NHKが昨年から、ラジオ百年を迎えるにあたり、ラジオ放送の意義を振り返るような企画を次々と送っている。単発的な特集もあるが、毎週日曜日に放送されている「伊集院光の百年ラヂオ」が、私のお気に入りである。
 
伊集院光とアナウンサーの礒野佑子とが二人で送る番組で、ちょうど礼拝の時刻に放送されるため、私は後から聞いている。貴重なラジオ音源から、ラジオの歴史を繙くものである。
 
すでに「100分de名著」で、その才能を遺憾なく発揮している伊集院光(出演者の各種証言により、本当に優れた理解と問題提起をしていることが分かっている)であるが、タレント伊集院光のベースは、ラジオ・パーソナリティーである。この「ラヂオ」のほうは、なおさら自分のフィールドでもあるわけで、実にいい味を出している。
 
また、ほんとうに貴重な音源である。その魅力をここに挙げていけば、際限がない。しかも、実は稀なのである。生放送が当たり前の時代、録音するという発想がまずなかったので、かつての大人気番組でも、NHKにはそのうち一本残っているかどうか、という程度なのだという。
 
そこでリスナーに呼びかけて、昔の音源をお持ちの方はお知らせください、ともアナウンスしていたら、やはり世間は広いもので、NHKにも存在しない音源をもった方が、先日すばらしいコレクションを紹介してくれた。
 
彼は3月24日の放送で、こう言っていた――ラジオ番組の70%は、確かにパーソナリティーやスタッフが、頑張ってつくる。しかし、番組を完成させるのはリスナーなのだ。
 
リスナーがいて初めて、ラジオ番組は完成する。語る当事者が、しみじみそう語り、繰り返していた。本当にそう思っているのだろう。リスナー側から見れば、制作側に本当にご苦労さん、と言いたいところだが、大きな目で見ると、確かにそうなのかもしれない。リスナーからの声や思いが、語る方にも影響を与えているのは間違いないし、たとえ喋る方が楽しそうに話しても、聞く者がいなかったら、声も言葉も風の中に消えていくに違いない。
 
ああ、これは実にいい話だ、と私は感心していた。説教者のエッセンスの一つが、ここにあると感じたからだ。説教というものの本質を、よく伝えていると思ったのである。
 
礼拝は対話である。神からの言葉と、人からの言葉。主日礼拝のプログラムは、教会により異なるし、いろいろ工夫もされているが、伝統的には、この言葉の受け答えが交互になされるという形式が守られている。なんとなくプログラムはつくられているのではないのだ。
 
神からの招詞、人からの賛美、神からは聖書の言葉、人からは祈り、さらには交読文というのものも、まさに神と人との言葉の交流そのものである。そして、神からの一定の言葉が告げられ、会衆に恵みの言葉の雨が注がれるのが、説教である。それは神からの言葉であり、その言葉がただ消えてゆくのではなくて、信仰を以て聞く者の魂と行動の上で実現していくことが俟たれる。神の言葉はその意味でも、出来事となるのである。
 
だから、その説教とて、一方的に垂れ流しされるのではない。会衆はそれを聴く。受け止める。受け止めて、返す。それは後ほど、というようには限らない。直ちに信仰によって、言葉を信じたというしるしが、まさにいまライブで語っている説教者にも跳ね返されるのだ。
 
塾での授業だってそうだ。聞く生徒の目や表情が、どんなに語る方を活かしてくれることだろう。確かに話すことが吸収されている、というのは、ひしひしと分かるものなのだ。こうした経験のない人は、礼拝説教をいま人々がどのように聞いているか、分からないということもあるだろう。中にはそんなことにはまるで関心がない人もいる。誰が聞いていようと、どのように聞いていようと、とにかく20分余り話す義務を果たしておけば、自分の地位と給与は安泰だ、とでも言いたげに、人のほうも見ないで原稿をただ読んでいるような人も現実にいるのだ。会衆も、そんなものだ、とじっとただ座っていることを「お勤め」にしていることに慣れてゆく。こうして、ただじわじわと死に向かう教会もある。
 
説教が、語る者だけによるのではなくて、聴衆によっても成り立つということは、なにも私が思いついたことであるだけではない。最近読み直している、ボーレンの『説教学』にも、全く同じことが述べられていた。以前読んだときに学んだために、私がそう思うようになったのかもしれないし、それも否定できないが、「説教」についていろいろ考えていくときには、きっと誰もがそういうことを知ってゆくのだろう、というふうには感じている。
 
さて、日本でラジオ放送が始まったのは、1925年のこと。アメリカで世界最初の公共放送が開始されたのが1920年だから、なかなか早い適応であったと言えよう。その間、1923年の関東大震災があったことで、ラジオの必要を早めた、とも考えられる。
 
災害にもラジオは強い。被災地で電気が止まればテレビは使い物にならない。いまはスマホもあるが、これも充電あってこそである。長持ちする電池で聞けるラジオは、さらに手回し発電で半永久的に利用できるというメリットももつ。また、届く範囲も広い。
 
福岡では、韓国の放送もよく入った。アナログチューナーは、とても面白かった。タモリが4カ国語麻雀などというネタを披露したが、ラジオが多分に役立ったのだと思う。
 
ベルリンの壁の崩壊へも、西側のラジオ放送が東側に届いていたという背景がある、と聞いたことがある。電波情報は、壁では防ぎようがなかったのだ。
 
そして、新聞とは比較にならない速さで情報が届くラジオは、その後当局の思想を即座に分配し、思想統制をするためにも用いられた。大本営発表という言葉は、今ではその悪意をこめて知られるようになっている。
 
権力が押しつけた思想は、それを信じ支える大衆がいてこそ、画一的に作用し、真の強制力を発揮する。確かに悪魔的指導者には重大な責任がある。しかし、それを完成したのは、大衆側のレスポンスでもあった。ハンナ・アーレントは、全体主義の成立を、平凡な人間たちの中にも理由があることを指摘した。その指摘を小馬鹿にするような者は、正に自分こそ加害者であることにも、気づくことがないのだろう。
 
ラジオが始めた営みはいま、インターネットにより、さらに双方向性と拡散性を伴って、瞬間的・直情的な理由で爆発的な支配力を及ぼすほどの力をも有するモンスターへと成長している。この百年が何であったのか、単なる数字の区切りとしてではなく、真摯に考えなければならないはずである。
 
そう言えば、イギリスの大説教者スポルジョンの礼拝説教は、それを聞くために、19世紀にして幾千人が押しかけたという。また、その説教は競って直ちに活字にされ、現地に行けない人にも届けられたそうである。
 
人々に与える影響も、もちろん大きかった。社会的に言えば、オピニオン・リーダーということになるだろうか。霊的指導者としても、まさにカリスマ的存在だった。しかし、それとて、スポルジョン一人が成し遂げたわけではないだろう。人々の魂もまた、それに応えて、共に時代の信仰を築いていったに違いない。
 
教会の礼拝説教を受ける者も、それが命の言葉であるということを忘れないでいなければならない。説教の「できない」者から毎週聞くようなことをしていると、あなたと世界が不幸になる。

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