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あれから20年。15歳だった彼らと授業を振り返った

 2023年。本村さんと「死刑制度を考える」授業を行って20年が過ぎた。
 当時授業を受けた彼らは35歳。8名の教え子にnoteを読んでもらい、振り返りをお願いした。卒業後、一切やりとりのなかった人もいた。私からの突然の連絡に驚きながらも「この授業は強く印象に残っています」と快諾してくれた。
  https://note.com/tatsuaki_yoda/n/nb4d085828c77

  


noteを読んで思い出したり、感じたことを教えてください。

 まずは、当時を振り返った感想を抜粋して、5人紹介したい。
 Aくん「【明確な答えのあるものに対し、正確にかつ素早く答えを導き出す】という授業・学習が多かった中、死刑制度を考える授業は、明確な答えがないテーマについて、とことん向き合って考える内容であり、とても貴重な体験だったことを記憶しています」
  Bくん「授業の中でどのような質問があったか、それに対してどのような答えがあったなど、はっきりではないものの覚えていました。自分が死刑制度のレポートで書いたこと、そのことについて母親と話をしたことを覚えています」
 Cくん「現在私は受験産業に身を置き、受験勉強を合理化することをビジネスとしていますが、人間性の土台を形成するために答えがない物事について考えることは必要だと感じています。受験は一つの手段にしかすぎず、人間形成の土台がなければ目標も生まれず、手段としての意味をなさなくなるからです。ときどき現場で生徒と話しますが、この土台が肝心かなと感じています。そんな多感な時期に死刑制度という答えのない問題を考えることができた自分は幸福だったのではないかと思いました」
   20年前の授業で「被害者がこの世を見ているなら、家族に何を望む?家族が人を殺すこと?」とレポートで書いた柿本康治くんは、次のように振り返った。
  「死刑制度を考えるためのレポートで、心を震わせながら死刑廃止の立場で文章を書いたことを覚えています。足りない頭を振り絞って出した文章がレポートをまとめた冊子に掲載されたときはうれしかった反面、これは自分の意見だとは胸を張って言えない、と後ろめたさを感じていました。インターネット等で他者の考えをいろいろと読みこみ、共感した言葉をベースにしていたからです。罪のない被害者の死や、罰として加害者に求められる死刑、悲しみと怒りに向き合い続けてきた遺族に対して、会ったこともない人の生き死に対して、断定的な文体で口出しした自分の文章に責任が持てなくなったのかもしれません。それほどに、どんな形であれ人に死を与えるということに恐ろしさを感じていたように思います」
  Dくん「自分は本村さんに質問する機会を得ました。当日は、独特の緊張感に包まれた体育館の雰囲気、本村さんの一つ一つの言葉の重さ、相当な準備をしてきたとはいえ、発言するときは本当に緊張しました。ただその中でも印象的だったのは、決して、声を荒げたり、責めるようなことはなさらず、本村さんが終始「一緒に考えましょう」というスタンスだったことです。大切な人が生きていることが当たり前でないこと、事件の悲惨さ、悲しみがありながらも前に進もうとする勇気、多くのことを学生の我々に伝えてくださったのだと思います」。

生徒と対話集会で話をされる本村洋さん

「断捨離を何度しても、授業冊子は手元に残しています」

 20年経った今も授業をそれぞれの気持ちで覚えてくれていた。そのことが素直に嬉しかった。柿本康治くんは「引っ越しの度に思い出します。断捨離を何度しても、思い出のアルバムは処分しても、死刑制度とNODUの冊子は手元に残しています。自分のルーツを辿るうえでのキーアイテムだからだと思います」とまで書いてくれた。そこまで大切にしてくれて、教師冥利に尽きる。彼は現在、フリーの編集者として活躍している。

生徒のレポートを集約した授業冊子「生命の尊厳と社会秩序-死刑制度を考える-」

Q.卒業してから、この授業について話をしたことはありますか?

  Eくん「3ヶ月前に10歳の娘に話をしました。きっかけは中学受験に向けて、私学と公立では何が違うのか?と問われた際に、私の答えの一つとして「面白い授業があること」だと伝えたことでした。その中で、この授業のことを例に出しました。 話していく中で、死刑制度を娘がどう考えるのか興味がわきました。自分は死刑制度を廃止し終身刑を導入すべきだと考えていたことを伝えました。娘の意見は死刑にすべきでした。他人の人生を奪った人が、人生を奪われず、更生の機会を与えられるのはおかしいとのことでした。娘は池袋暴走事件での遺族を例に挙げていました。私は何も反論できず、一方で答えのない会話を娘とする機会が無かったため、娘の考えを聞くことができ、成長を感じていました」
 父として娘と死刑制度のあり方を話し合ったEくんは答えではなく、自分の学びを伝えていた。またA くんは「定期的に思い出しますし、色んな人と話します」として、こう書いてくれた。
 A くん「同級生と集まった時に、中高時代の懐かしい思い出トークで、本村さんと死刑制度を考えた授業が話に挙がります。もう一つのきっかけは、やはり同じような痛ましい事件や事故があった時です。当時池袋周辺に住んでいたこともあり、2019年の池袋暴走事故はショッキングで、まさにこの授業と事件を思い出しました。妻と小さい子供もいたため、我々がこの事故と同じようなシチュエーションだったらどう思いどう行動するかという話を妻としました。その際に、死刑制度を考える授業についても話が及びました。その当時、比較的感情面に重きを置く私の意見とは対照的に、妻はあくまで論理・理性に重きを置く意見であったことに驚いた記憶があります」
 2人とも「池袋暴走事故」が、死刑制度を今一度語るきっかけになったという。別の教え子Fくんも「池袋暴走事故など子どもに関わる事件・事故で、自分の価値観・共感性が親になって大きく変化したことを自覚しました」と振り返っていた。
 言うまでもなく交通事故と殺人事件は異なる。光市母子殺害事件は18歳の少年が欲望の赴くままに母子を殺害し、レイプし、財布を盗んだ。浅ましく救いようのない短絡的な犯行である。そこに少年法という壁が立ちはだかった。何の罪もない母子を殺害した18歳の犯人は、実名も顔写真も公開されず、幾重にも少年法によって守られていた。
 交通事故と殺人事件は異なる。それでも、許し難い不条理に巻き込まれ、愛する人の生命を失った気持ちとは何か? 他者の苦しみや悲しみを立ち止まって考えたいとの気持ちが育まれたのかもしれない。 

授業冊子「生命の尊厳と社会秩序-死刑制度を考える-」

「わずかでも納得できる部分」を求めて

 「 僕の母は弟を交通事故で亡くした。加害者に恨みをもったり、相手が代わりに死ねばよかったと思ったらしい。祖父も祖母も涙を流しすぎて放心状態になるほどだったそうです。交通事故でさえこれほど悲しいのに、殺されるなんて残酷で悲しい」。20年前の授業で、母親が交通事故で味わった悲哀を聞き取って、死刑制度を考えたGくんにも振り返りをお願いした。
 「中学のときも人を殺した人は死をもって償うべきだと思っていましたが、20年以上たった今も考えは変わりません」。そう振り返った彼は、現在、小児科医をしている。
 「医師になってどうしても助けることのできない子供たち、自分よりも先にこどもを見送らなければならない家族をみていると尚更その思いは強くなります。仕事をしていて人が亡くなる姿をみるのはいつもつらいですが、寿命、病気であれば【わすがでも納得できる部分】はあると思いますが、他人によって人生を終わらされる、そこに【納得できる部分】はないと思います」と語った。
 我が子を見送らなければならない親の辛さを、医師として目にしてきた彼が記した【納得できる部分】という言葉が重く響いた。
 私自身も20年来の大親友を急性心筋炎で亡くした。病気であったとしても、愛する人を失う喪失感は大きい。もう一度、会いたい。そんな気持ちでいっぱいになって、涙があふれる。【納得できる部分】という言葉が何度もリフレインした。

 小児科医Gくんはこの「答えが何かわからないことを一緒に考える」授業について、次のように書いてくれた。「確かにわかりやすく正解にたどり着くのも大切だと思いますが、その正解にたどり着くまで試行錯誤した過程がより大切で価値があり、人間としての深みを与えてくれると思います。そこまでに試行錯誤した経験がまた次の問題、困難に出会ったときに活かされるのではないかと思います」。
 また柿本康治くんは、こう振り返ってくれた。「同じ正解を用意されていて、そこにたどり着くスピードを競う。生徒それぞれの答えを机上に並べて、わからないことを一緒に考える。どちらが自分の世界を押しひろげて、同じ社会にいる他者への理解につながるかと考えると、私は後者だと思います。少なくとも、自分のアイデンティティーを感じられたのはそうした授業でした。当時は気づいてはいませんでしたが、他者理解は自己理解につながっていたのでしょう」。
 そうなんだ。他者の苦悩と向き合う「他者理解」、そして違和感や偏見を抱く自己と向き合う「自己理解」。自己と他者の打ち合いの中で、とことん考えることが「生きていることの素晴らしさを感じる」のではないだろうか。

社会派マジモノ企画通信「CAB」表紙(佐々木齋生くん 画)

「感情論を排して、理性的に議論すべき」と訴えた真意

  20年前の授業で生徒たちとの色んなやりとりが思い返される。その1人に、「死刑制度の是非は理性的に議論すべきだと思います」と涙目で訴えてきた生徒がいた。佐々木齋生くんだ。最後に彼と話したのは東日本大震災のあった2011年だった。私の依頼に対して、彼はエッセイの形で答えてくれた。
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 楊田先生の指導のもと「死刑制度を考える」授業を受けてからもう二十年にもなりま す。当時を振り返って今一度自分の立場を思い出しますと、何よりも不思議に感じるの は、制度の是非それ自体に対して自身が賛成だったか反対だったかはあまり憶えていない、ということです。現実的な社会制度としての議論、個々人の感情としての議論、 そのどちらの立場でも決して明確な答えの出ない問題だということを、中学生だった当時から何となく感じ取っていたのかもしれません。
 しかし死刑の是非の結論以上に、今でも鮮明に憶えていることがあります。公民の授業が終わった後、社会科教室の裏の準備室で、授業の在り方、議論の進め方について楊田先生と激論を交わしたことです。その頃授業で紹介された内容は、死刑制度の運用や歴史についての知識のみならず、身近な人の死にまつわる事件・事故当事者の方々の手記や手紙、そしてそれに対する同級生達の感想が多分に含まれていました。今となって は気恥ずかしい記憶ですが、当時私はそのような授業に激しい抵抗を覚え、殆ど泣きながら先生に訴えかけました。その時の心情を完全に描き直すことは難しいですが、私が求めていたのはこの困難なテーマに対する「感情論を排した、徹底して理性的な議論」 による答えでした。人間の死に関して身近な人々と丁寧に語り合うという機会は、三十五歳になった今でも決して多い訳ではありません。まして中学生だった私にとって、たとえ社会科のいち授業の内容であったとしても、それは殆ど初めての経験でした。その貴重な経験を安易な感情論やごくありきたりな道徳観で汚されたくない。そういった憤りだったのかもしれません。
 ですが今もう一度自身を省みると、本当のところ、それは憤りというよりも寧ろ「決して自分が当事者になれない」ことへの悔しさだった様に思います。どれだけ私たちが教室で個々人の想いや心情を吐露したとしても、理不尽に親しい人を奪い去られてしまった当事者の方々の言葉の前には、とてもちっぽけなものになってしまうでしょう。 私は当時、そのような体験談を目の当たりにしてとても敵わない様な無力感を心の底で覚え、自分たちに何が出来るのかわからず途方に暮れてしまいました。かといってその様な経験値を自身に求めるのは大変不幸で不謹慎な願いです。結局私にとっての拠り所は、そういった心情の吐露を排することで経験の差を無くし、フラットに議論をすすめるという態度でした。感情論を排し、理性的に物事を捉えることを何より是としている と思っていた中学生当時の私ですが、その実、心の底で最も重視していたのは当事者の方々の剥き出しの心情そのものだったのです。「議論における当事者性の持つパ ワー」、だからこそ「当事者のことばを直接聞く事の大切さ」、それこそが(当時はっきりとした自覚はなかったかもしれませんが)私が楊田先生の授業を通して得た何よりの気づきでした。

 授業外、或いは卒業後も、楊田先生にはこの当事者性を学ぶ機会を多く頂きました。 ひとつは文化祭企画「NODU」の続きとして「CAB」という冊子の表紙絵を担当して、 怒る右派左派に堂々割って入る黄色いタクシーのイラストを描いた記憶があります。も うひとつは卒業後しばらくして、大阪市西成区のあいりん地区に連れて行っていただき 地域問題について深く語らいました(これは成年後初めて先生とお酒を交わした嬉しい記憶でもあります)。私は常々自分が決して社会派ではない、そぐわない人間だと思っているので常に一歩引いた様に企画に取り組んでいましたが、しかし卒業後社会経験を積む中で、やはり当事者という言葉の重さを知る機会がいくつかありました。最も印象に残っているのは大学院留学の為にミズーリ州セントルイスに滞在していた時の経験で す。

 2014年、セントルイスのファーガソン市で黒人青年のマイケル・ブラウンが警察に射殺される事件が起こりました。警察の対応に対し黒人コミュニティで抗議行動が大きく拡がった結果が、所謂「ファーガソン暴動」です。これは後に全米で頻発する警察 の黒人差別に対する集団抗議・暴動の契機となり、ジョージ・フロイド事件などにも繋がっていきます。私はあくまで専門分野の研究の為に滞在していただけですし、人種差別問題に関しても(是正の難しさを感じつつも)「差別は絶対によくない」というごく当たり前の認識だけをもって無関係に暮らしていました。ですがファーガソンは、私のアパートから車で北にほんの10分の場所でした。暴動が発生し暴徒が店や家々を壊し、燃やし、略奪を繰り返す様子がヘリからの撮影でテレビに映るのですが、知っているス トリートをじわじわと私のアパート近くまで迫ってくるのです。それを観た時、窓の外で鳴り響くサイレンの音を聞いた時、迫る黒人の波に恐怖し野蛮だと感じる自分が居なかったと言い切れるでしょうか。暴力に対する純粋な恐怖と、黒人に対する差別的な恐怖を、私の心の中で明確に区別する事が出来ていたでしょうか。

 同様の疑問はセントルイスに滞在していた5年間、日々続きました。道を歩いていると向こうから、汚れたジャンパーのポケットに手を突っ込んだ黒人男性が向かってくる。咄嗟に身構える自分の心の中で私の怯えが、汚れた身なりから来ているのか、ポケットの中にあるかもしれないナイフや拳銃から来ているのか、それとも黒人という事実から来ているのか、深く悩みました。「愚かな人種差別なんて駄目に決まっている、自分が加担する訳がない」。そんな当たり前の感覚が、セントルイスというアメリカの人種差別の最前線の街に住み当事者たちに囲まれることで、初めて揺さぶられたのです。これは私が対外的に差別行為をしないだとか、差別用語を口にしないとか、そういう話ではありません。私自身の心の中の、納得の問題なのです。現代の日本も決して単一民族国家とは言えませんが、しかし日常の中で繰り返し自分の人種観に疑問を投げかけ続けるという経験は、渡米しなければ決して得る事はなかったでしょう。この経験を振り返る時いつも、私は楊田先生の授業を思い出すのです。

 死刑制度、或いはもっと一般に世界に溢れる事案、紛争、問題に再び立ち戻って、では当事者ではない立場から私たちはどうすればよいのでしょうか。「感情論を排し、徹底して理性的な議論を行うこと」。私の基本的な姿勢は今も中学生の頃と変わりはあり ません。しかしそれはロジックで論客を打ち負かす為のものでなく、私たちが辿り着け ないかもしれない当事者の方々の答えを尊重し、少しでも追いつく為のせめてものの行為に過ぎないと今は感じます。何重にも覆われた表層的な感情という殻を理性をもって少しずつ剥いていき、奥底に眠る「自分の本当の感情」に出来るだけ向き合う行為を繰り返すこと。終わりはなくとも日々その困難な課題と向き合うこと。その真摯さが何よりも必要な筈です。

 私は先日、がんを患い胃の大部分を切除する手術を受けました。術後の検査で幸い早期のステージ1と判明しましたが、とても進行の早い類の胃がんであったため、それまでの三ヶ月間に渡り自身の余命について大変に不安を覚える日々を過ごしました。もしかすると、五年後にはもうこの世には居ないのかもしれない。私自身は明日命を落としても構わないと思って生きていますが、ただ後に残す妻や家族の事だけが心配でたまりませんでした。「大丈夫、問題ないよ」と気遣って明るく振る舞ってくれる家族との食卓の、言葉に出来ない雰囲気は決して忘れられません。人は皆いつか死ぬ。そんなことは嫌という程わかっている筈なのに、常々気づかされている筈なのに、それでもその逃れようのない事実に直に向き合う事は簡単ではありませんでした。その時が来ても、自分は何の悔いなく生きたとどうにかして家族に伝えたい。そんな事ばかり一日中頭をよぎっていました。まして、事件や事故によって突然命を奪われた方々にはそんな悩みを持つ猶予すら与えられなかった事を考えると、想像するだけでも震え胸が切り裂かれる様な思いです。私たちが諸問題に向き合う時、究極的には私たちひとりひとりが自身や家族の生死と向き合い続けることになるのかもしれません。たとえ何らかの活動に積極的に参加することがなくとも、私も今後もひとりの人間として、何らかの死や生に向き合う経験を重ねていくのでしょう。そして課題に向き合う時、私は、当事者の声を尊びその為に真摯に論を尽くしたいと思います。 
                      2023年3月25日 佐々木 齋生

自ら嵐の中に入ることで学ぶことが多大にある

 嗚呼。嬉しい。
 嵐の中に居る人を見た時、その人を冷笑するのではなく、見てみぬふりをするのではなく、時には自ら嵐の中に入ることが重要であること。そこから学ぶことが多大にある。このことを彼らは学んでいた。当事者の悲哀はわからないかもしれない。けれども他者の気持ちに迫り、奥底に眠る「自分の本当の感情」と向き合うことが、自身の成長をももたらす。人のために灯をともせば、自分の前も明るくなるのだ。
 ジョン・デューイは「1オンスの経験は1トンの理論にまさる」(『民主主義と教育』)と述べた。ここでの経験とは、世界の中で経験したことの意味を振り返り、思考し、探求し、それ以降の行動を方向づける経験とされる。
 
 20年の時を経て、彼らの学びを確かめることができた。思い切って、彼らとの振り返りを本村洋さんに読んで頂き、メッセージをお寄せ頂いた。

【寄稿】本村洋さん

 楊田先生

 原稿を拝読して、当時のことをより詳細に思い出しました。
 あの時、私は27歳でした。当時、会社では新人社員同然でしたから、社会人として大した人生経験も成功体験もない私などが生徒の皆様に対して無責任な発言をして良いのだろうかと、逡巡していました。
 ただ正解はない『死刑制度を考える』という重いテーマでしたから、とにかく生徒の皆様の率直な質問に、自分の考えや気持ちを正直に答えようと必死だったと思います。きっと、生徒の皆様以上に緊張していたと思います。 
 今思えば、当時の若かった私は、私よりもさらに若い生徒の皆様に、「人の世は『平等』でもなく、『公正』でもなく、『公平』でもない。『不条理な現実』があるだけ。でも、許しがたい不条理に巻き込まれても、それに立ち向かっていかなければならない。負けてはならない。」と、伝えたかったのだと思います。
 なぜなら、あの時の私は嵐の中で、私自身が打ち負けてしまいそうだったからです。生徒の皆様の前でお話をさせて頂くことで、自分を鼓舞したかったのだと思います。だから生徒の皆様を教育しようなど、高尚な目的はなかったと思います。 

 当時学生だった皆様の振り返りを読ませて頂きました。
 当時の私より歳を重ねられて、仕事や家庭を持ち、様々な困難に対峙されながら、それぞれの人生を歩まれていました。皆様の人生と私の人生が一瞬だけ交わったのですが、その一瞬の交わりが、今も尚、皆様の人生において影響を与えていることに驚きを覚えました。
 楊田先生が企画して下さった授業が、その後の生徒の皆様の人生において、お子様との大切な会話のきっかけになったり、自分の価値観を見つめ直すときの経験知になったりしていることを知り、『教育』の大切さを実感しました。
 生成AIが登場し、テクノロジーの進化が人間という知的生命体の存在意義を危うくしています。私は、遠回りしてもいいから自分で悩んで考えることが、人を成長させて人生に彩りを与えるのだと思います。 
 楊田先生の取り組まれている「自ら葛藤する授業」は、形式知が簡単に入手できる時代だからこそ、より大切だと感じています。今回の生徒の皆様の振り返りが、何よりもそれを実証されています。
 最後に、楊田先生の授業に参加させて頂き、生徒の皆様とお会いする貴重な機会を頂けたことに深謝致します。ありがとうございました。    
                              本村 洋

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