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答がわからないことを教師は教えてもいいんだ

 「みんなに聞いてみたいことがある。タバコをすっている人はいるかな?手をあげてみてほしい」。当時は喫煙者だった私はゆっくり手を挙げた。
 横山先生は教室を見渡しながら、「ありがとう。君は生徒がタバコを吸っていたら、どうやってやめさせるのかな?」と問いかけた。先生と目があってしまった。「【先生もタバコ吸っているじゃないですか?】と生徒に言われたら、何と言うかな?」と聞かれた。言葉が出なかった。

 このやりとりは、25年前に教職を目指す大学生だった私が「道徳教育の研究」という授業で、横山先生に投げかけられたものである。私は何も答えられなかった。皆さんはどうだろうか?タバコをすっている大人は、タバコを吸う子供に何も言えないのだろうか? 考え込む二十歳の私に、横山先生はこう言われた。「道徳教育とは行動を指導し、矯正することだと思っていませんか? どうしてタバコをすうべきではないのかを【生徒と一緒に考える】という発想はありますか?例えば「俺もタバコやめられないんだ。けどな、成長期にあるお前にはタバコを吸って欲しくないんだ」。そんな語りの中に生徒に考えさせることがあるのではないですか?」。

  鮮烈だった。二十歳のあの授業で、何かを破り抜かれたような記憶が今も残っている。答えがわからないことを教師は教えてもいいんだ。何が答えか、わからないけれど、生徒と一緒に考える。これも教育なんだ。自分の中にあった教育という固定概念が拡がったように感じた。
  もちろん、喫煙する大人の言葉にどこまで説得力があるのか疑問はある。現実にタバコは販売され、大人も喫煙している。そこに潜んでいる本音と建前を無視して、「タバコを吸うべきではない」と答えを教えるだけが教育ではない。一緒に考えることも教育なんだ。


「自分がシビれているからこそ他人をシビれさせることができる」。

  プラトンは『メノン』の中でシビレエイのたとえを紹介している。シビレエイは、まず自分自身がシビれているからこそ、他人をシビれさせることができる。生徒の心を動かすには、まず教師自身の心が動かねばならない。
 「授業で勝負する教師」をモットーに23年間、公民科教師として授業実践してきた。私のテーマは「社会問題と葛藤する」ことである。答えの出ない社会問題を深く取り上げ、何が答えなのかを教師が生徒と一緒になって考える。それでこそ現代社会を掴み取ることができると考えている。
 「どうせ人権や平和が大切だって言いたいんだろう」「どうせ声をあげても現実は変わらない」と冷笑的にとらえてしまう空気感が現代社会にはある。このシニシズムが民主主義の最大の問題だと考えている。だから「差別や戦争はしてはならない」「見て見ぬ振りをせず声を上げる勇気を持ちたい」といったアタリマエの価値観を「正解」であるかのような教え方はしない。答えは一つではない。キレイゴトではなく生徒の本音を引き出し、考える授業実践を追求してきた。
 
 社会問題と真っ向勝負する教師自身の姿が、生徒を巻き込むことができる。このnoteでは、そんな授業実践を伝えていきたい。
 「生徒と共に社会問題と葛藤する授業」を広く多くの方に伝えたい。社会科教育に携わる人だけでなく、学校教育とは無縁の人にとっても読まれるものにしたいと思った。自分が当事者でなかったとしても、社会問題を考え、誰かの苦悩に迫ることは心がキュッとなる濃密な時間になるだろう。
 皆さんに容易には答えの出ない社会問題を一緒に考えてもらい、生きていることの素晴らしさを感じてもらえたら、うれしい。

まずはその始まりを話したい。

私の教師人生を変えたニュース番組

 皆さんは死刑制度の是非を誰かと議論したことがあるだろうか?
    私は、偶然みていたニュース番組をきっかけに、親友と死刑制度について話し込んだことがある。

 2002年3月『ニュースステーション』(テレビ朝日)が光市母子殺害事件を報道していた。当時18歳だった少年が23歳の主婦の首を絞めて殺害し強姦した。そばで泣き止まない生後11ヶ月の女の子を床に叩きつけ首を絞めて殺害した。あまりに身勝手な少年の犯行に言葉が出ない。愛する妻と娘を無惨に殺された遺族の本村洋さんの怒りと悲しみに胸が苦しくなった。
 公判で検察は死刑を求刑したが、一審・二審ともに無期懲役の判決だった。被害者が2人で、犯人が18歳になったばかりの少年だったという、過去の判例に基づくものだ。番組は二審・広島高裁による無期懲役判決を報道していた。スタジオに被害者遺族の本村さんが来ていた。キャスターの久米宏さんに「少年に死刑を望む気持ちは?」と問われ、こう述べた。

今の少年を見てますと死刑という判決を下さない限り、更生しないと思っています。自分が死刑を科せられる。自分の生命が奪われる。きっと人間は生を望む生き物ですから、たぶん恐怖して時には絶望するかもしれませんが。そういった感情を私の妻と娘に味わわせたんだということから、あの少年が反省するきっかけをつかめるんだと私は信じています。


2002年3月『ニュースステーション』

 被害者遺族の立場から、死刑を求める論理的な訴えに、聞きいった。死刑制度を廃止すべきとの論拠は多くある。「国家を使って加害者を殺すことであり、結局は殺人と同じである」とか「冤罪であったら取り返しがつかない」等々。しかし「もし愛する家族が残虐に殺されたら、犯人に死刑を求めるのではないか?」と問われたら、途端に答えに窮してしまう。言うまでもないことだが、理屈と感情は両立しない。

 番組放送直後に、一緒にみていた親友と死刑制度について深夜まで話し込んだ。そして思った。「この番組をどうしても、生徒に見せたい。この番組を見れば、死刑制度や罪を償うことを生徒と考えることができる」。20 年前はYouTubeもなかった。ニュース番組を録画して見る人などいない。生徒たちに「この番組のビデオテープを手に入れることができたら1万円の謝礼を払う」と呼びかけた。諦めきれなかった。Googleもなかった時代だが、インターネットで調べていると「全国犯罪被害者の会」のHPに本村さんの名前を見つけた。思い切って、事務局に電話した。私の話を聞いた事務局の方は、「そんなに一生懸命になっておられるのでしたら、メールでお書きください。ご要望を本村さんにお伝えすることならできます」と言ってくださった。

全国犯罪被害者の会 本村洋さんへの手紙

 はじめまして。突然のメール失礼いたします。本村さんが出られた2002年3月14日の『ニュースステーション』を是非とも授業の教材に使わせて頂きたいのです。この事件については以前から知っておりましたが、死刑制度、少年法、司法制度のあり方を生徒たちに考えさせるには、これしかないと思いました。鋭く公民としてのあり方を問うていました。本村さんの発言を聞いて、私自身とても考えさせられました。それまで死刑制度廃止を考えていた自分に大きな揺らぎを感じました。
 公民を教えるにあたって、社会の一員として現実を知るだけでなく、この社会の現実の向こうにある理想が何かを一人一人自ら見据えてこそ力強い社会のメンバーとして生きていけると思っています。私が感じた揺らぎを授業で生徒にどうしても伝えていきたいと考えました。
 テレビ朝日にも問い合わせたのですが、ビデオ貸し出しは無理とのことで、どうにかして番組ビデオテープをお借りしたいと思い、ご連絡させていただきました。お忙しいのに大変恐縮ですが、ご検討のほど、どうぞよろしくお願い致します。                          楊田 龍明

本村さんからの返信

楊田さま
 はじめまして。メール拝読させて頂きました。私などの発言に耳を傾けて下さり、それを授業で取り上げて頂く旨を知り、感謝しております。授業の中で、刑罰のあり方を通して犯罪の悲惨さや、殺人という愚かな行為の罪の深さを生徒の皆さまに少しでも理解して頂ければ幸いです。本題に入ります。ご所望のビデオテープは私が所有しておりますので、ご住所などご連絡頂けましたら、送付させて頂きます。                              本村 洋

 全てはここから始まった。この番組を本村さんから借りてしまったことが、私の教師人生を変えた。教師も何が答えかわからない。だけど何が答えなんだ?と、とことんまで迫る。「答えの出ない社会問題を生徒と一緒に葛藤する」実践に無我夢中になっていった。

天国からのラブレター (新潮文庫)

遺族としての応報感情とは何か。罪を償うとは何か。

 本村さんからVHSビデオテープが届いた。当時私は、教師3年目の25歳だった。本村さんと同い年である。私は、中学3年生の「公民」で死刑制度を考える授業を行うことにした。
 生徒たちに本村さんとのやりとりを興奮気味に語った。私はこう言った。「愛する人を殺されたら君はどんな刑罰を望むだろうか。私が揺さぶられた番組を君たちに見せたい。そして皆で考えたい。そのためにレポートを書いてきてほしい」。
 強い危惧があった。「被害者遺族の意見に圧倒されて議論にならないのではないか」ということだった。少年は強姦目的で主婦の首を絞め、生後間もない乳児を床に叩きつけて殺害した。しかも、無期懲役の判決は少年であれば7年程度で仮釈放される。番組の中で拘置所にいる少年が「かわいい犬と出会ってやっちゃった。それが罪でしょうか?」「本村さんは賢い。だけど私は勝った」などの手紙を友人に送っていることが紹介されていた。遺族の感情を踏みにじる数々の言葉は、裁判で証拠採用されていた。
 余りにも理不尽な事件、怒りと悲しさで思考停止するのではないか。番組を見せる前に死刑制度を調べさせ、まず生徒それぞれの意見を書かせてみるべきだと思った。皆さんは愛する家族の生命が奪われたら、どんな刑罰を望むだろうか?

あの人は死んだのに犯人が生きているのは許せない、あの人のためにも死刑にしたい、という被害者の家族をニュースで見たことがある。もしその犯人が、死刑になったとしたら誰が殺すのだろうか。被害者の家族ではない。そんなに殺したいなら、自分の手で殺すべきである。だが、それは被害者のために殺すということではない。被害者がこの世にいないなら、殺しても何も変わらない。結局は自分のためではないのか?もし、あの世というものがあり、被害者がこの世を見ているなら、家族に何を望む?家族が人を殺すこと?犯人の死刑?違う。家族の幸せだろう。

授業冊子「生命の尊厳と社会秩序-死刑制度を考える-」より

 生徒の柿本康治くんが書いたこのレポートにガツンと殴られた。私自身が被害者遺族の感情を決めつけていたことに気付かされた。遺族が本当に犯人を殺せば、殺人罪に問われ、人生を台無しにすることになる。遺族の気持ちと償いとは何か?を考えさせられた。
 授業では生徒たちのレポートを紹介しながら、本村さんが裁判で読み上げた意見陳述書に耳を傾けた。

「人はこの世に生を受けたと同時に、死をも受けています。だから、人は必ず死にます。そして多くの人は志半ばにして、命を終えるんだと考えています。だから、私たち家族が志半ばで、その生活を終えなければならなかったことに対して、君を憎んでいるわけではありません。私が君を許せないのは、妻と娘の最期の時を家族で過ごさせてくれなかったことです。もし叶うならば、私は妻と娘の呼吸が止まり、意識がなくなるその瞬間まで、妻と娘の手を握り、顔を見てやりたかった。どんな悲惨な最期であろうと、私は私の家族の最期を見届けてあげたかった。私の家族になってくれた妻と娘に感謝の言葉を言いたかった。その機会を奪った君を、私は断じて許さない。娘と妻の最期を知っているのは君だけです。妻は君に首を絞められ、息絶えるまでの間、どんな表情をしていたか。どんな言葉を残したか、母親を目の前で殺された娘は、どんな泣き声だったか。必死にハイハイして、君から逃れ、息絶えた母親に少しでも近づこうとした娘の姿はどんなだったか。君はそれを忘れてはいけない」

本村 洋さん 裁判での被害者遺族の意見陳述書

  この言葉が法廷で加害者の少年の前で読み上げられたのだ。妻と娘の最期を思う言葉が胸に迫る。
 270人の中学3年生の優れたレポートを集約し授業冊子を作成した。本村さんを取り上げた2つのテレビ番組を踏まえて、授業は次のように行った。

授業計画

生きて罪を償うとは何か。更生するとは、どういうことか。

さだまさし作 サンマーク出版

 2限目の授業では、そもそも罪を償うとは何なのかを話し合った。さだまさしさんの曲「償い」を教材にした。この曲は、交通事故で人を殺してしまった若者が、「何もかも忘れて 働いて 働いて 償いきれるはずもないが…」と遺された夫人に毎月仕送りを続けた実話を元に作られた。7年後に夫人から彼に手紙が届く。「ありがとう。あなたの優しい気持ちはよくわかりました。だから、どうぞ送金はやめてください。あなたの文字を見るたびに主人を思い出して辛いのです…」と続く。授業では、この曲を流して考えた。
 私がこの曲を知ったのは、ある裁判のニュースである。傷害致死罪に問われた18歳の少年2人に反省の色がみられないことに、東京地裁の裁判長は「この歌の、せめて歌詞だけでも読めば、なぜ君らの反省の弁が人の心をうたないのか、わかるだろう」と判決後に説諭した。
 ラジオのたった一回のオンエアがきっかけでリスナーの若者たちが人の生命について話し合うコーナーができたほどだ。授業で音楽を流すと、歌詞を読みながら、まつげを濡らしている生徒がいた。この曲の後に、次の生徒のレポートを紹介した。

  僕の母は弟を交通事故で亡くした。加害者に恨みをもったり、相手が代わりに死ねばよかったと思ったらしい。祖父も祖母も涙を流しすぎて放心状態になるほどだったそうです。交通事故でさえ、これほど悲しいのに、殺されるなんて残酷で悲しい。だから被害者の身になると死刑を求めるのはやむを得ないと思う。

生徒のレポート 授業冊子「生命の尊厳と社会秩序-死刑制度を考える-」より

  何年もかかって許しを得た話がある一方で、交通事故で弟を失った母が語った悲哀を示した。相対する状況を提示した。
   2019年池袋で母子が生命を落とした暴走事故。遺族の松永拓也さんの悲痛や苦悩に心を痛めた人も多いだろう。妻と娘を失ったことによる葛藤を松永さんはこう記している。「この手で触れられたら、抱きしめられたら、愛してるってこの口で直接言えたら、それだけ言えたらどれだけいいだろうかと思う自分もいれば、過去に縛られていたら2人は逆に心配してしまうのではないかと思う自分もいて、そのせめぎ合いです。僕の人生は、これとずっと付き合っていくと思います」。
 罪を償うとは何か?涙を流しすぎて放心状態になる。遺族の苦しみの深さを知れば知るほど、答えは出ない。
 同じ犯罪被害者遺族でも、「生きて罪を償ってほしい」と訴える人もいる。授業では生徒のレポートで紹介されていた「生きること自体が償いだと思う」と訴えた犯罪被害者遺族・原田さんの事例を取り上げた。弟を保険金殺人で失った原田さんは償いについて、こう述べていた。「私としては、加害者がさまざまな制約を受けながら、狭い空間の中で何をどうやって償っていくのかは分かりません。手紙を書いたり、絵を描くことなど、償いの方法も限られていると思います。それでも、生きること自体が償いだと思うのです。加害者には、自分の犯した罪を直視し、苦しみ、悩みながら自分の意思で一生をかけて償ってほしい。そのための唯一絶対の条件は生きていること。死んだら、何も生まれてこない。すべて、それで終わりです」
 遺族の気持ちも様々あることを理解し、「罪を償うとは何か?」を話し合った。死刑を求める本村さんは、同時に少年の更生も望んでいた。「死刑という判決を下さない限り、少年は更生しないと思っています。…世界中の誰が見ても、この少年はきっちり更生しているではないかと、反省しているではないかと、どうしてこの少年に対して死刑を科す必要があるのかと思わせるまでになって、私は胸を張って堂々とあの少年には死刑を受け入れて貰いたいと思いました」
 怒りや憎しみと向き合い続けたからこその言葉だと感じた。本村さんがアメリカで少年死刑囚と対話するドキュメンタリーを日本テレビ「情報最前線」が放送していた。刑務所の面会室で死刑囚の少年と対話しながら、更生とは何かを考えている本村さんの姿を生徒に見せた。
 ニュースステーションで本村さんはこう語った。

 もし少年が反省していない状況のまま、死にたくない、死にたくないと言って、死刑を受け入れた場合は、それは全く意味がないと思っています。やはり、我々がどうしてこの人間を死刑にしなければならないか、なんて死刑は残虐なんだ、だったら死刑をなるべくしない社会にしなければならない、と思う駆動力ですね。それに私の妻と娘の命、そしてこの少年の命があれば、何らかの駆動力を生むことができるのではないか。
 もちろん遺族として応報感情もありますし、この手で殺してやりたいと思う気持ちもありますが、やはり社会にとって、一番被告の少年が生まれてきた価値があったと思えるのは、自ら反省して、死刑を受け入れて、罪を償うその生き方を私たち社会がきっちり見届ける。その少年の死から、何かを感じ取って私たちが、さらに社会を良い方向にしていくという駆動力を得る。それが一番、少年にとっても、私の妻と娘の犠牲にとっても、この事件が有効かつ、我々社会にとっても何らかの影響を与えることができるのではないかと思って、少年には死刑を求めます。

本村 洋さん2002年3月『ニュースステーション』(テレビ朝日)

 怒り、憎しみ、悲しみ…どれほどのものだろう。できる限り理性的に、自己や社会と向き合い建設的な言葉を紡ぐ本村さんに、惹きつけられていた。「死刑をなるべくしない社会にしなければならない、と思う駆動力を生みたい」との言葉の意味を考えれば考えるほど、本村さんにお会いしたいとの思いが募っていた。
 思い切ることにした。「生徒たちの質問に、答えて頂けないでしょうか。学校で話をして頂けませんか?」とお願いした。
 快諾を頂いた。1ヶ月後、山口県から本村さんが大阪に来てくれることになった。6クラス270人の生徒が参加して対話集会を行うことになった。

本村 洋さんと生徒の対話集会の様子/2003年3月

本村 洋さんと生徒の対話集会

 当事者と生徒がリアルに対話する。私は3つの点にこだわった。
 ①.事前学習を踏まえ生徒の質問を軸にして進行する。②. 本村さんは舞台の演壇上から語るのではなく、皆の目線が一緒になる。③.生徒は質問の際に、名前を名乗った上で質問する。
 体育館で、270人の中学3年生が本村さんを囲んで対話集会は始まった。

生徒A(柿本康治くん)「本村さんは何のために死刑を求めているのか、いろいろあると思いますが、一番大きいものを教えてください」
本村さん「自分の愛する人を殺された。これだけ命をかけて愛した人を殺されたんだから、それを壊した者に対しては死をもっても償って欲しいという気持ちは、人間としての当然の感情であって、その当然の感情を主張することは、僕は全然愚かではないと思っています」
生徒B「なぜそこまで少年に更生して欲しいと、わざわざ自分の家族を殺した人に求めるのですか?」
本村さん「少年が遺族に対して【申し訳ございません】とか【胸を張って死刑を受け入れて罪を償います】という言葉を残した時に私も衝撃を受けると思うし、皆さんも衝撃を受けると思うのですね。その時に【人の命の尊厳とは何か?】とか【刑罰とは何か?】といったことが議論になると思うのです。私が日本で一番まずいと思っているのは、死刑は皆さんが知らないところで勝手に行われているわけです。きっちり更生し反省した人が死刑を受けた時、皆さん絶対に何かを感じるはずなんです。なんでこんな人が死刑になるんだ? 本当に死刑は必要なのか?そういうきっかけを今、国は与えていない。そういうきっかけがあって初めて死刑制度について議論できると思っています」
 生徒のいくつもの質問に、力強い声で語る本村さんがいた。

 中でも心に残っているのは、このやり取りである。
 生徒C「なぜ妻と子が犯人の死刑を望んでいると確信できるのでしょうか?」。「私はこの目で自分の妻を見ました。私が会社から帰ってくると、服を全部脱ぎ取られて手首と顔をガムテープで縛られて… 身体中が冷たくなって、首を絞められて…死ぬと【浮腫】っていって、青い斑点が出てくる。死後硬直をしてました。…きっと妻と娘も加害者に相当の恨みをもってこの世を去ったと思っています」。
 思い出すのも辛い場面をここまで語られたことに武者震いした。

  対話が深まる中で、生徒Dが手を挙げた。「少年が更生せずに出所したら、本村さんは少年を自らの手で殺しますか?」。少し考えながらこう言われた。「もし加害者が目の前にいた時に、私は自分の殺意を抑える自信はないです。そして私が加害者を殺したところで、私の両親や天国にいる家族は喜ばないと私は分かっています。事件の被害者みんなが自問自答していることです」
 やむに止まれぬ一言、一言に信念があった。信念があるから声に力がある。被害者がどれだけ悩んでいるのか、この思いを伝えずにはいられないとの本村さんの思いが音声にこもり、聞くひとの心の水面に波紋となっていくように感じた。

 「答えは1つではない。皆さんが今の死刑はおかしいと思えば、死刑のない国を作ればいい。もっともっと考えて、国を変えて、より良いものにしていって欲しい」。本村さんの語りが体育館に響いた。愛する妻と娘の生命のために、語られているように感じられた。悲しみを乗り越えて、より良い未来のために語る姿を目の当たりにした。

生徒たちの感想を紹介したい。
「力強く僕たちに話てくれたことで、僕たちも一人の日本の社会を支えていくものとして、強い影響を受けました」。
「一人の公民として、死刑制度を考えたい。考えることが大事だと思う。考えることによって犯罪は愚かな行為だとはっきり自覚する必要があると思いました」。
 対話集会を終えた夜に生徒からメールが届いた。「生きていることの素晴らしさを感じました」。私も同じ感想を持った。
 尊き生命が失われた悲惨な現実に苦悩した上で、どうすれば死刑を必要としない社会を実現できるのかを考え抜いた。第九・歓喜の歌をを作り上げたベートーヴェンは「有限な存在でありながら、無限の精神を持つ私たちは、ひたすら苦悩し、そして歓喜するために生まれてきました。それで、ほとんど次のように言えると思います。最も優れた人たちは苦悩を通して歓喜を手に入れるのです」(『ベートーヴェン全集』講談社)と言い放った。
 【苦悩を突き抜け歓喜に至る】。ここでの歓喜とは、当事者ではない立場から、他者の苦悩に迫ることで得られるものなのかもしれない。
 本村さんとの実践以来、悩みもがきつつも力強く生きる姿をもう一度、伝えたい。「生きていることの素晴らしさを感じる」。もう一度生徒とそれを味わいたい。それが「社会問題を生徒と一緒に葛藤する授業」に私を突き動かす原動力となった。本村さんから届いた年賀状に添えられていた次の言葉を大切にしている。
 「意志があれば、足も軽い」。

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https://forms.office.com/r/c5NGVSsi8J

https://note.com/tatsuaki_yoda/n/n140521e620da

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