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経営コンサルティングの「これまで」と「これから」

会社のデータベースを漁りながら、先輩コンサルタント達がつくった資料を読んでいた。

日本の経営コンサルティング業界の発展に貢献してきた人たちの主張には重みがある。

プレゼン資料にPowerPointを使う前は、Wordが使われていた。更にその前には、手書き。

分析や描画が今ほど手軽ではなかったことも影響しているのかもしれないが、1つ1つの表現が本質を一突きするように凝縮されていて、今なお「あたらしい」と感じさせる。


思わず、いくつかメモを取った。


コーポレイトディレクション(CDI)は、1986年に生まれた。いわゆる「外資系」から飛び出した創業メンバー達は、「日本企業のためコンサルティング」を掲げた。

創業者の吉越さんは、ある取材で「CDIは、外資系か、内資系か、どちらですか?」と聞かれた時に、「第3の分類の『和魂洋才』系をつくっておいてください」と答えたそうだ。

おそらくそういった思想の反映でもあろう。昔の資料には、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」というメインメッセージの資料がある。



当時の資料を読んでいて感じるのは、
「日本のコンサルティング業界をつくろう、根付かせよう」
という気概だ。

この点については、CDIに限る話ではないし、そこには外資系も内資系も関係ない。

BCGのJames C. Abegglenは日本企業の三種の神器を「発見」したし、McKinseyの大前さん無くしては日本のコンサルティング業界は「離陸」していなかったに違いない。


個人的に感じることは、その時の主張は、

科学的かつ抽象的な戦略"そのもの"に価値があるということというよりは、

「戦略」という概念を提示される、科学的かつ抽象的な思考の"方向"に耕す意義のある土壌があるということだったんじゃないかなってこと。


つまり、具体の世界と抽象の世界は地続きであるという(当たり前の)ことを再確認した。

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さて、今、そして、未来を見据えて、考えてみようとおもう。



「戦略」は、コモディティ化していないだろうか。

抽象の世界と具体の世界は分断され、
戦略は主体性と身体性を失うのかもしれない。

そうなれば、企業は、命を失ったピノキオのようになるだろう。



独立研究者の森田真生さんが、数学者の岡潔の言葉を紹介している。

数学は抽象的・観念的になってしまった。
数学は知性の世界だけには存在しえない。
感情を入れないと成り立たない。

数学における知性と感情について実感をもって理解することはできていないのだけれど、

「戦略が主体性を失う」ということと通じるものがあるようにも思う。



そういうことだとすると、「株主主権のコーポレート・ガバナンス」という議論が出るのは自然なことかもしれない。人形になったピノキオを動かすには、「良識と見識を持った」誰かが操らないといけないのだから。でもやっぱり、それってオカシイ。

(菊澤研宗先生が、経営者の気構えとセルフ・ガバナンスについて議論しているのを思い出した)


我々コンサルタントは、
人間(個人&法人)と対峙しているからこそ価値を生むのだとすると、
人形相手にコンサルティングは成立するはずもなく、
その行き着く先は「コンサルティングの死」だ。

そうならない(「死なない」)ために、どうするか。


1つの考え方として、
いま、抽象の世界と具体の世界の間の「橋渡し」にこそ価値がある
言うことはできないか。

現実の世界だけにとどまるわけでもなく、
抽象の世界に浮遊するだけでもなく。

信念から生まれたアイディアに、
身体(骨格、神経系、感覚器、筋肉etc.)を与えてこそ、
そのアイディアは動き出す。

特に今のような時代、
抽象的な議論が、具体性を置き去りにしたまま走りがちだ。


僕たちoririメンバーが、変革を現実のモノにする為として、人の変化・着火やアライアンスなどに必要性と関心をもっているのは、経営の現場に身を置く臨床家としての直感と実感なんだと思う。

そもそも、
oririが掲げている
「経営を、『らしく、あたらしく』」は、
「会社(経営者)主権」を信じているからだとも言える。



経営コンサルティングという「ない仕事」をつくってきた人達がいて、
その頃から環境も変わっている。

経営コンサルタントという仕事を信じている者として、
「この仕事」の進化について、しっかり考えていきたいと思う。



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