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阪神タイガースの順位と僕の人生のシンクロ率について【エッセイ】

 【*この作品は所属する大学の文芸サークルで参加した2023年9月の文フリ用に書いた作品です】
 僕は現在大学に通っていますが、年齢は今年で45歳になります。外見はかなり若く見えるらしいので大学生に混じってもあまり違和感はないようです。知らんけど。で、そんな長く生きてきた僕は大の阪神タイガースファンでもあります。そこで、ここではそんな僕の阪神ファンとしての履歴を人生の浮き沈みとともに見ていきたいと思います。一応先に結論めいたことを言いますと、本当に見事なまでに阪神タイガースの成績、順位と僕の人生の浮き沈みがシンクロしていることがわかると思います。では初めて阪神タイガースを知って応援し出した、あの伝説的なシーズン1985年から。
 1985年、昭和60年、バース、掛布、岡田のバックスクリーン3連発など、圧倒的な打撃でセ・リーグ、及び日本シリーズまで制覇した阪神タイガース。僕は小学1年生で、それまでほとんど興味のなかった野球にまず、夏の甲子園、あのKKコンビ、清原、桑田を擁した大阪のPL学園が全国制覇した夏の高校野球、甲子園からなんとなく興味を持ったことを覚えています。たぶん、夏休み、小学1年の8月まではそこまで、阪神タイガースを知らなかった、知っていてもファンとしての応援はしてなかったと思います。でも、小学校に上がってから出来た友達と毎日のように公園でからバットの野球で遊んでいたから、野球そのものは好きだったのだと思います。
 で、どこから阪神ファンになったかというと、これははっきりと覚えているのですが、カルビーでしたか、忘れましたがあの当時、今も売ってるみたいですが、「プロ野球チップス」というお菓子がありまして、ポテトチップスにおまけとしてプロ野球選手のカードがついているものですね。それをなんとなく買ってそのおまけのカードを袋開けて見てみたら、それは「阪神タイガース」の背番号16番「岡田彰布」選手でした。そう、今の阪神の監督さんですね。その当時はまだ28歳と若く、阪神の超強力クリーンアップの五番を打っていました。で、そこから僕は阪神ファン、岡田ファンになり、たぶんそのポテトチップス買ったのも丁度PL学園が夏の甲子園で優勝した直後くらいで、じゃあプロ野球も見ようか、なんて子供心に思ったのでしょうか、見出したらなんか優勝しそうな感じで、バース、掛布、岡田、一番打者の真弓とかめちゃくちゃホームランとか打ちまくって、小さな子どもにも分かりやすい、面白い野球をしてまして、一気に大ファンになっていきましたね、阪神タイガースの。そして21年ぶりのリーグ優勝、そして今に至るまでの唯一の日本一をその伝説的なシーズンの昭和60年に達成しました。子供心に「阪神ってめっちゃ強い凄いチームなんや」って誇らしく思っていたところ、これもよく覚えているのですが、知らない阪神ファンのおっちゃんに「坊や、次に阪神優勝するのは20年後やで」と言われて、「何言うてんねんやろ、こんな強い阪神は、来年も優勝するに決まってるやん」と意に介さなかったのですが、知っている人は知っている、ここからまさかのプロ野球史に残る暗黒時代に突入するとは、あのおっちゃんも思ってなかったことでしょう。優勝はせえへんけど、Aクラスはそこそこ、なんて甘い、甘い。で、僕の人生も……? というほど不幸ではなかったのですが……。小学校のうちはね。
 まあ、記念すべき社会に出る第一歩が小学校入学だとしたら、見事にシンクロして阪神タイガースは優勝して日本一にまでなっている、まず一つ目が証明されましたね。
 そしてここからが阪神タイガース苦悩の時代、というかファンが一番やっていて辛かった暗黒時代に入ります。昭和61年、次の年ですね、バースは今でもプロ野球記録の.389の打率を残し、2年連続の三冠王に輝くなど大活躍しましたが、掛布、岡田などが成績を落とし、丁度5割の3位に。で、どうしたことか、日本一のたった2年後の1987年には球団史上最低勝率でぶっちぎり最下位に。なんでやねん。バース、掛布は次の年で引退。黄金時代はあっという間に終わり、その後を担う若手はなかなか台頭せず、万年Bクラス、の最下位か良くて5位という体たらく。僕自身は小学生でまあ、まだ人生がそこまで、というか子供でしたので、シンクロというほど最下位みたいなことはなかったのですが、この頃は。
 で中学に入って、何だかんだで悩み多き年頃、でも中学2年は楽しかったですね。部活も野球部に所属して、一応レギュラーで初めの頃は試合でヒットを打ちまくって一時期打率が5割を超えていました。クリーンアップ打ったりして、調子良かったですね。で、そんな気持ちのいい一年に我が阪神タイガースはあの1985年以来の強さを誇っていました。前年に甲子園のラッキーゾーンという今の甲子園のライトやレフトスタンドの手前に、もう知らない人も多いかと思いますが、柵というかフェンスが張ってあって、今より五メートルくらい手前だったんですね、それでホームランとかよく出る球場やったんですが、それを取り払って、あまり今のようにホームランの出ない球場になって、でもそれが返って弱い阪神には良かったのでしょうか。投手力を主体とした守りのチームになって、この1992年のシーズンは7年ぶりに優勝争いを最後までヤクルト、野村監督率いる90年代最高のチームとやり合っていました。阪神は新庄や亀山といった久しぶりの若手スターが躍動して、また投手陣もリーグ唯一の2点台で、強かったですね。本当に優勝するとみんな期待して、僕もバースとかの時代はまだ子供過ぎてそこまで熱心にリアルに阪神応援できなかったのですが、昭和60年は。この1992年は中学生でいろいろ分かって、強い阪神を初めて応援できる喜びに毎日、興奮していましたね。ある意味人生で一番、熱狂的に情熱的に阪神を応援していたのかもしれないです。若いって純粋っていいですね。でも、最後の最後でヤクルトに負けて、優勝することは出来ませんでした。でも日本一に輝いたあの年以来の順位2位となり、万年最下位だった屈折した阪神ファンの心理は幾分、回復してみんな元気になっていたのかも。
 しかし、暗黒時代はまだ半分残っています。ここからは前期(あえてこう呼ばしてもらいます)暗黒時代よりさらに深い闇へとファンとともに突っ込んでいく阪神タイガース。道連れにせんといてくれ、という多くのファンがひたすら嘆き続けるどうしようもない時代が10年近く続いていきます。そして、僕の人生のまさにどん底もこの10年に訪れることになります。
 その入り口とも言うべき1993年、僕は中学3年生。阪神はまだかろうじて4位。Bクラスのトップ。そんな言い方あるんか? 僕の人生はどうだったかというと、ここまで書いていいのかどうか迷いますが、よりこのテーマ「阪神の順位と人生のシンクロ率」に説得力を持たすためにあえて書かせてもらいます。中学3年生になって、部活動も夏で終わり、高校受験のために、公立中学だったので、受験勉強を始めました。そのストレスとかもあったのかどうか分かりませんが、僕は秋ごろから精神的に落ち込む状態が出て来たりして、それは後に思春期ではたまに起こるホルモンバランスの崩れによる「うつ病」でした。それは15歳から21歳くらいまで続きましたね。定期的に気分が落ち込んで、高校入ってからそれはかなり酷くなって、うつの時は学校を休んで、少しマシになっている時に通うという生活が高校いっぱい続いて、結局は高校3年で中退して、家に引きこもりがちな生活となり、大学受験もうつ病がなかなか治らないために思い通りにならず、結局はその当時は諦めました。そんな人生のどん底の1993年から2002年まで我が阪神タイガースも4年連続最下位を含む10年連続Bクラス、そのうち最下位が6回、前期と合わせると1987年から2001年までの15年間で最下位に輝くこと10回、なんてことだ。当時のどん底を知るオールドファンはまさか21世紀に阪神がこんな常勝チームになるなんて夢にも思ってなかったですね。当然僕もその一人でした。
 あのヤクルトの黄金時代を築いた野村監督をもってしても3年連続、前の吉田監督から数えて4年連続最下位だった本当にどうしようもない球団だった阪神は星野監督という中日を2回も優勝させた名監督によって本当に誰もが考えてもしない奇跡を起こすことになります。それが星野監督就任2年目の2003年、あの昭和60年以来、18年ぶりのリーグ優勝を成し遂げます。僕の人生は……というと2002年まで引きこもりでもがいていまして、一応あちこち支援施設とか利用したりしてましたが、なかなか抜け出すことが出来ず、ほとんど諦めて絶望してました。「このまま家から出られなくて、人生終わるんかな」と。でも詳細はここでは言えませんが、奇跡的に僕は2002年の終わりに何とか引きこもりのどん底から抜け出せるあるきっかけをつかむことに成功しました。その時はそこまでとは思いませんでしたが、それがなかったら、たぶん僕の人生は2003年で完全に終わっていましたね。変な言い方かもしれませんが、命も尽きていたと思います。自殺か何か、いや、本当に寿命が25歳で尽きていた、そんな感じも大げさじゃなくします。まあ、僕のそんなどうしようもない話はさておき。阪神タイガースはこの僕の引きこもりが見事に奇跡的に終わって、回復し始めた2003年、ぶっちぎり優勝をやってのけます。本当に、神様の力が作用したかのような、それまでの暗黒時代を一気に吹き飛ばす勢いで。7月にセ・リーグ最速記録の優勝マジックを点灯させ、その後ややもたつきましたが、9月15日に18年ぶりにセ・リーグ優勝を果たしました。みんな泣いていましたね、本当に。そして阪神を優勝に導いてくれた星野監督は神様に見えました。優勝インタビューで「おめでとう、長かったね」とかファンをねぎらう発言などしてくれて、本当に凄い人だと思いました。でも、その影で星野監督はとんでもない重圧と戦っていて、体調不良のためなんと優勝を果たしたそのシーズン限りで勇退されてしまいます。誰もがこれから阪神の監督を十年以上やって何回も優勝させてくれると思っていたのですが。残念です。でもその後を継いだ岡田監督がまた凄くて。2005年に阪神はまた優勝します。ちなみに僕は引きこもりからやっと抜け出て新聞配達などし始めたのがこの2005年からで、ここでもシンクロを考えると、「自分の力で働き出した記念すべき年」ということで阪神は優勝したんじゃないか、と思ったりします。やっぱり働いて自立していくことは人間にとってとても大事な事ですからね。そこから人生は生まれ変わったように、もう引きこもりに戻ることなく、阪神も暗黒時代に戻ることなくAクラス常連のチームになって、ほらやっぱりシンクロ率高め。ちなみにほとんど優勝しかけた2008年、僕は整骨院の専門学校にまで行くというくらいになっていまして、人生のステージがそれまでより高いところに行ってますね。それからいろいろあって医者になろうと思って大学受験を始めて高いところで人生は推移し、阪神も毎年のように優勝争いをします。優勝はしませんでしたが。それは僕の人生もなかなか受験勉強頑張るけど、医学部はこの大学とか、島根大学医学部、医者は無理だと思って阪大薬学部、理学部など受け続けてやっぱり受からなくて。でも自慢じゃないですが、2019年は阪大薬学部薬学科受けて落ちたのですが、その年に取れた点数を同じ阪大理学部物理学科の配点に直したらその年の合格最低点を7点上回っていて、結局理学部物理学科が本当に高校の時も行きたかったところだから、薬学部じゃなくて理学部物理学科にその年出願していたら阪大に行っていたのに、と激しく後悔したのは言うまでもありません。 
 まあそんなことがあってようやく2021年、この大学の工学部に合格できたのですが、阪神はこの年はほとんど優勝しそうで、最後にヤクルトに負けましたね。僕は大学に合格したこの年、人生のステージがそれまでより大きく上に行くと、阪神は優勝するというシンクロ率を信じていたので、絶対優勝すると思っていたのですが、違いましたね。惜しくもゲーム差なしの2位でした。なんでかな、と思ったのですが、入っただけじゃ大学は意味ないってことに入ってから気づきました。受験勉強していると合格がゴールみたいに思えますが、入ってみるとそこからが人生の本当の勝負なような気がします。目的が見えなくなるけど、でもそこで挫けてしまうと合格した意味がなくなるから。そこをなんとか越えて、卒業していく中で本当の人生のステージが上に行くのだと。僕は丁度その過程を今進んでいるところです。正直言いますと、去年、入った工学部の勉強が心底嫌になって、ここを辞めようと思って阪大理学部物理学科を受験し直したんですね。でも不合格となって、この2023年、3回生になるし、この学科で卒業して就職していく、と決めたのです。まあ、今はその前期が終わって個人的な手ごたえとしては去年あれだけ単位とか、受験勉強するからと言ってあまり取らなくて、この前期にその分進級するために他の人より余計に取らなければならなくなっていたのですが、それも工学部の一つ一つの科目が重いし課題クソ多いし、本当に大変でしたが、何とかテストとか受けた感じでは「これは終わった」というのが一個もなかったので、なんとかやれたのかもしれないです。知らんけど。よー頑張った。そして今これを書いている2023年8月14日現在、我が阪神タイガースは何と10連勝して、貯金24で2位のチームに8ゲーム差をつけて首位にいます。このまま優勝してくれ、と願うばかりですが、今年阪神が優勝するとしたら、僕の人生のシンクロ率からすると、やはりこう言えるのかもしれません。「本当に社会に出ていくのに必要な工学的な技術を身に付けて、それを生かしていく道筋、土台作りが出来た一年。それは紛れもなくこれまでの人生よりさらに大きくステージを上げていくことになっていく」と。
 以上でこの「阪神の順位と僕の人生のシンクロ率について」を終わります。どうだったでしょうか、荒唐無稽とばかりは言えない説得力、あるように思えないですか? 僕だけ? まあこれからも阪神を応援しつつ、どんなことにもめげないで頑張っていきたいと思います。最後まで読んで頂きありがとうございました。
 
おまけ 【個人的阪神歴代最強メンバー】
 
一番 真弓明信     (ライト)    
二番 鳥谷敬      (ショート)
三番 ランディ・バース (ファースト)
四番 掛布雅之     (サード)
五番 岡田彰布     (セカンド)
六番 金本知憲     (レフト)
七番 田淵幸一     (キャッチャー)
八番 新庄剛志     (センター)
九番 江夏豊      (ピッチャー)
 
代打 川藤幸三
代打 桧山進次郎
 
先発 村山実
先発 藤浪晋太郎
先発 井川慶
救援 ジェフ・ウィリアムス
救援 久保田智之
抑え 藤川球児

【後日談】
見事に阪神タイガースは18年ぶりにセ・リーグ優勝、そして38年ぶりに日本一にまでなりました。それは良かったのですが、僕自身去年の11月下旬にあまりにも大学の課題がハード過ぎて燃え尽き症候群みたいになり全く課題が出来ない感じで、この2024年1月まで大学に通えなくなって3回生留年します。まあ当初は辞めて元々行きたかった理学部物理学科とか再受験や編入学とか考えていましたが、45歳で大学から出たらただのどうしようもない人間だということがことごとく落ち続けたアルバイトの面接で痛感させられたので、奨学金は切れますがこの4月からもう一回工学部3回生をしようと思っています。まあなんとかいいバイト見つかって何とか奨学金借りずに進級に必要な単位はあと10単位くらいなので1年かけてゆっくり取れば嫌にならずに無理なく進級できるかも…と考えましたが、結局は休学して本当に行きたかった大学へ人生最後の挑戦をすることにしました。以下にその心境を綴った詩的エッセイを載せておきます。まあこんな感じですが、頑張っていたらまた阪神タイガースも優勝してくれるかもしれないので、史上初の連覇を励みに負けずに頑張っていきたいと思います。ではまたどこかで。


「最後の挑戦」

大学受験が趣味なんやね──

皮肉のような
そうでもないような
まあそんな感じ

何かに向かって
わかりやすく
努力するという意味では
こんなに
モチベーション上がるのは
あんまりない気がする

何なんでしょう
人それぞれ
やる気の出るものは
違うでしょうけど
僕の場合は
大学受験でした

いや
今もまた
やってます
大学休学して
アルバイトしながら
人生の総決算として
悔いのないように
17歳の時に
死ぬほど行きたかったけど
うつ病やら
引きこもりやら
何やらで諦めた
某国立大学理学部に
来年挑戦します

そこで物理や数学を学んで
将来は
マッサージの副業しながら
時給高めの
プロ講師で
生きていきたいです

たぶんそれが
僕の人生で
本当にやりたいことに
今のところですが
限りなく近いことかな
と思っています

今度こそ
諦めたくないですね──


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