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多様性ってなんだ!って考える。多分、社会のものさしなんて存在しないのよ。#23_01

結論:多様性はとても面倒だ。それでいて愛おしい。って話をします

さて、2023年!かかってこいよ新時代!!
そんなことを心の中でつぶやいては、未知の未来が到来することにビビる30代も後半に差し掛かる、ぼくです。どれだけ老けても一生ばぶばぶ言ってきますばぶ。

今年の1年の始まりは、ハッピー野郎の巣窟、古旅館のシェアハウスの我が家【宿場noie坂勘-sakakan-】にて始まりました。みんなで新年抱負を語ったりなんかして。改めてすげーいいシェアメイトと暮らしてるなぁって。

そのあとぼくは高校時代を過ごした青春まみれの古都京都の両親の家に。(両親は不在)全国で利用できるスポーツジムで急にね
「多分、社会のものさしなんて存在しないのよ。」
って、誰に向けて発しているのかわかりもしない言葉が降ってきた。
なので、そのことについて書いてみた。の、記事です。よろしくね。笑
↑っていう冒頭だけ書いたまま放置して更新は3月になりました。笑

自分が「変わっている」ということに高校時代から気づいていた

ほら、ぼくってよく「変わってる」とか「飛んでるね」とか、「いい意味で!」ってディスられるタイプじゃないですか?笑
でね、こちとらそんなこと20年も前から百も承知!なんですよ。

降ってきた。ってさっきも違和感なくしたためたんだけど、「言葉が降ってくる」という現象がぼくの中では結構な頻度で起こっていているんです。ラブストリーと同じくらい突然に。あの、ちゃかちゃ〜んのギターリフみたいな!(Z世代には通じない、、)

音楽家でもないのに「メロディーが降ってくる」という現象も日常茶飯事と言えるくらいおこるんですよ。使いこなせない才能よ、、!!!

でね、高校時代に降ってきた言葉というのがぼくの人生でも衝撃的な言葉だったんです。こんなの↓

「嗚呼、ぼくは普通に生きることはできへんねや。サラリーマンとか絶対無理やん。どうせ古着屋のオヤジにでもなってるんやろな。面倒くさ、、」

京都の繁華街河原町から新京極通に向かって歩く公衆トイレの横あたりで、、
脳内に直接語りかけてくるの、、え?誰?!ってあたりをキョロキョロしたくらい。

ぼくは自分自身を客観的に眺めて観察することがどうやら得意のようで、社会との価値観の乖離とか、ズレとかがどうやら多い人間なんだ。ということを、この頃から意識/理解し始めたわけです。
つまりは「変」とか「変わってる」という立ち位置に自分が立たされることが常であるということも併せて意識/理解し始めるんですよ。

ぼくの頭の中で生まれる発想とか疑問とか、探求とか欲求とか。
ぼくの中ではそれが当たり前のど真ん中にあるんだけど、どうやらそれはみんなに共通しないことや共感されづらいことであるということもわかってくる。

そんな違和感を中学生の頃から少しずつ感じ始めた結果、先述した「古着屋のオヤジ」という言葉が降りてきたんだと思われる次第です。笑

ここ10年で常識の尺度が緩くなってきた。最近暮らしやすいよね、ってシェアメイトとよく話してる。

2011年4月。ぼくは長野県小谷村-OTARI-という日本の最果てのような「絵に描いたど田舎」の築150年の古民家をゲストハウスとして運営を開始したんですね。

古民家noie梢乃雪
↑縁側があって囲炉裏があって家の対岸に広がる山脈を一望できる古民家の宿。足を踏み入れた人々の人生に少なからずもしくは多大な影響を与えてしまうことで定評のある髭面無口な宿主ぐっさんがたつみから代替わりして運営している。

未曾有(みぞう)という読めない言葉が日本中を席巻するほど大混乱と深い悲しみを覆った大震災のことがあって、それからこの国はどんどんと変化して。

その頃の常識の尺度なんていまの社会では懐メロのごとくノスタルジーじゃないですか。だって、当時生まれた子が小学校を卒業するってんだから。

ぼくがゲストハウスを始めた当時にはまだ「移住」も「SNS」も「コミュニティ」も「夏フェス」も「ゲストハウス」も「シェアハウス」も、言葉として一般認知をされていなかったんですよ。
その頃のこと、思い出せます?!笑

時代はmixiからFacebookへの転換期で、ゲストハウス初期の情報発信は個人ブログ(シーサーブログ?だっけ?)だったんですよ!いにしえ!!笑

そんな時代感の中で人々は立ち止まって考えたんですね
「あれ?なんで働いてるんだっけ?」「自分たちはなにを得ようとしてるんだっけ?」

ぼくがゲストハウスを始めた2年目に訪れたゲストさんがぼくやぐっさんを見て目を輝かせながら「あこがれます!!」なんて言ったんですよ。

「どういうことなんだろ??」ってぼくはそれからずーっと考える出来事だったんですね。

ぼくは高度成長期〜バブルを果敢に乗りこなした企業戦士のご子息なわけで、30年ローンのマイホームに、年に一度の1週間の北海道旅行、5年おきに買い換える車。の世代の価値観に煮付け込まれた1億総中流の申し子のような人でした。

「豊かさ」とは「収入の大きさ」だと信じ込んでいた。だから、ど田舎の宿屋のおやじなんてのはある意味、一般社会からドロップアウトしたような感覚だったんです。社会の一員であるということをある意味放棄したような。

↑そう言えば昔こんな記事書いてた!

それからのぼくの人生の問いは「豊かさとはなに?」なんですよ。

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社会からドロップアウトしたような生き方だとある意味の後ろめたさがどこかにあって。だってほらぼく、客観的に眺めて観察することがどうやら得意な常識人なんで。笑

でもね、なんとなく時代が、ぼくみたいな生き方を許容するようになったんですよね。あの頃ってまだ(今もそういう考え方は残ってると思うけど)田舎そのものがなんだか後ろめたさの象徴だったじゃないですか。都会の方が偉い、とか、田舎なんかで、みたいなの。

震災から変化し始めた日本では「地域活性」という言葉が行政内ではトレンドのように使われるようになって、移住だコミュニティだSDGSだと。良し悪しあれど、たくさんの言葉生まれる度にぼくたちはその意味を知ったり、知ったような面持ちで暮らしているじゃないですか。

それらがいい意味で功を奏して、人々は以前よりも多様性とか他者貢献とか、問いを持って生きてみる。とか。
もしくは、もっと深く傷ついた人が「痛み」を口にできるようになったり、その声を拾い上げようと尽力する人が勃興したり。
考え方や主張もたくさんの論点から議論されるようになりました。

そんなあれこれの経緯があって、人には人の数だけの思想や正義や想いがあるよね。っていう、当たり前のことを認識し始めたんだな。と。ぼくを含めてね。

ぼくが暮らすシェアハウスには、言ってしまえば変な奴らが集合していて、まるで動物園みたいな。みんな違ってみんないい。というより、その違いを知ることに喜びをおぼえるような場所になってるな。って感じるんですよ。

だから、みんな違ってみんないいと心底思ってるみんなが共通して「最近生きやすくなってきたよね。」って笑ってる。良し悪し含めた時代の変化は、個人的にはいい方向に進んでるんじゃないかなぁって感じている次第です。

多様性ってなんだ!って考える

そうだ!この記事はあれですよ、これからを悩む若き学生や、年齢関係なく人生の岐路に立つ誰かに伝えたいんだ!!ということを思い出しました!笑
いまさらだけど、そんな方向でまとめようと思います!!笑

ぼくのシェアハウスで暮らしてるちぃちゃんって子(坂勘マスコット人材)がいるんだけど、その子が話してた話が面白くて、ここに書いとく。

「小学生のときに、女子ってだけでピンクを選ばされた。それがすごい嫌で、なんで青じゃダメなの?ってきいても、女の子はピンクなの。って言われる。ちぃは絶対青がいい!って言ってるのに。」って。

ぼくも幼少期は(いまでもそうだけど)ずーっとなぜなぜ期だったんです。
「なんで空は青いの?」「なんでお遊戯の発表で踊らないといけないの?」「みんながしてるから!は、説明になってない!!」って。笑

ぼくはずーーーっと、みんなと同じことをする。という行動に抵抗感があって、「同じという安定感に恐怖心がある」んですよね。あらかじめ決まっていることをで言われる通りに行動すればいい。と言われたときにやっぱり「なんで?!」が発動するんです。だって、理由も根拠も思想もない、誰かのなんとなくで決められたことを疑いもせず行動するって、怖いじゃん!!

だからちぃが話すように「性別が女でも青がいい。」はめちゃくちゃ理解できるし、それが運営上の理由で男女の数に合わせて青とピンクの比率を揃えているならそのことを説明したらいいんじゃないかな。って。ぼくがその場にいたら「だったらぼくがピンクをもらうよ。どっちの色であろうとぼくは多分使わない。」って言ってると思う。笑

**


「多様性」って言葉にするとポジティブで、それが故にそれを認めようと認めまいと、そのポジティブな言葉がある意味、正義の刃のように振りかざされる感覚も同時に存在してる気もしていて。

ぼくは自分で商売をしているから、よく考えるんです。運営上には必ずルールや規約などの「決め」が必要になってくるんですね。

シェアハウスの業務の上でそういった「決め」が必要になってくることってすげーたくさんある。例えば、下駄箱の使用していい各人のスペース、冷蔵庫もそうだし食材のストックスペースもそう。でも、必要なスペースって人によって全然違って、靴の量もそう、調理をするしないにしてもそう。

こちらの運営側の都合である意味「多様性」を排除して均一化を図ることも必要になってくる。

そもそもぼくたちのシェアハウスは古い旅館なので玄関の大きな段差とか、ぶつかったら割れるガラスの建具とか、身体に障害のある人や走り回るこどもたちには全然フリーな空間じゃない。
じゃあそれらの人を受け入れる為に趣のある木造旅館をフラットで安全なスペースに造り替えるべきなのか?それは費用対効果的にどうなんだ?歴史文化を保存するという観点ではどうなんだ、、!??

だからもし、「多様性を否定しているじゃないか!!」なんて、正義を振りかざされたら、、はてさてどうしたもんでしょうね?と。そんなことを妄想しては首を傾げている次第です。

とまぁ、堂々巡りな思考は尽きないもんです。
だから、上に書いた青とピンクの話も、もしかするとそんな事情があったのかもしれないなぁ。なんて思ったり。みんな違ってみんないいそれ踏まえて!!
「多様性」を考えるのであれば、一人一人双方向の考え方に触れる必要があるんですよね。

で、あなたはどう生きるべきなのか?

ぼくはいつも結論に至るまでのアプローチが回りくどいなぁっ(ここまでで4200文字。ごめんて)て思いながら、大事なことね!笑

つまるところね、豊かさの定義も幸せの定義も存在なんてしないんですね。
「社会のものさし」なんてものもそもそも存在しない。あるとすれば、それはあなたの周りに存在する共通認識と空気感だけ。
↑いじめの正体は空気だ。ってリーガルハイで言ってたけど、それです、それ!

収入の量が多くたって、有益に使えなきゃ意味がないだろうし。
田舎で暮らして自然と戯れていたって孤独は自然では埋められない。
旅に生きたいと人は言うけど家がないのはやっぱり不便。

つまりはわかりやすい正解!!なんてものもやっぱり存在しないんです。

で、あなたはどう生きるべきなのか?

多様性を認める社会は均一化を図れないからとってもとっても難しい。
「豊かさ」とは「収入の大きさ」だ!って言ってる方が簡単なんだ。
それでも、社会は大きな震災とパンデミックを経て、時代を強制的にアップデートし続ける。だから

この社会は、常にあなたもぼくも「なぜ?」を問われ続ける。なぜ生きるのか?なぜ働くのか?なにを着てなにを食べてなにをこの世界に生み出すのか??と。

多様性はとても面倒だ。それでいて愛おしい。
面倒であること、本来それが人間なんだ!とも思う。
みんな違ってみんないい。だから正解なんて存在しない。悩み苦しみ問いかけの千本ノック。まぁでも大丈夫よ。みんな同じくんなことわかっちゃいないから!笑

それでもね、やっぱり強要されることが多かったこれまでの社会に比べてやっぱり生きやすくなってきた気がするよ。社会や悪意ある誰かや違った価値観で優しさをおしつけてくる親族になんて言われたって。みんな違うそれぞれの幸せを求めて生きればいいんだよ。それができる社会になってきたのは、何度も言うけどいい気がするんだな。

悩みや苦しみを溜め込んでおけない人がいるなら、ぼくたちのシェアハウスに来ればいい。みんなニヤニヤしながらあなたの話をきくでしょう。で、またあなたを悩ませる言葉を投げつける

「なんで?」って。笑

興味ある人は是非とも、個性がぶつかり合う動物園のような田舎の宿場町のシェアハウスへ。

しれじゃあまたね。

2023年3月12日
写真とテキスト:たつみかずき

あなたの悩みを増幅させる動物園のようなシェアハウス>>


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