社会の振り子とその正体(反知性主義と存在論)
こちらの出口先生の記事、ぜひ読んでみてください!今日はその中から感じたことを。
反知性主義って?(記事の内容抜粋)
無意識でほぼ動いていることをわかりながら、意識の上でファクトとロジックで会話をせざるをえない。が、それに対して「なんか違うなあ」と感じてしまう、それが反知性ではないかと。なるほどなるほど・・
飽きっぽい、かあ・・なぜなんだろう?この点に少し思うところがありまして、後述しています。
「知性と結びついた権力がうまくいっていない」。いやあそうですよね。権力を持ち始める前に知性が培われていないと、権力や資本主義や法・言葉の奴隷(出典:宮台真司先生より)になってしまう、そうなると社会がよくならないんじゃないかと思います。せめて、そうならないように、権力をもつほど、知性を持つために努力をしたほうがいい。だけど・・
ちょっと強引につなげていますが、そうなんですよね。私も含めて、きっと本当に必要とされているより、全然勉強していない。ので、知性に乏しい。ので、社会がよくならない。これ、なんとかしたいんですよね。これについてはまた後日。
改めて、なぜ反知性主義が起こるのか?(存在論)
さて、先ほども言及したとおり、「反知性主義が起きるのは、飽きっぽいから」について。
これについて「なぜ飽きっぽいのか?」と問われればそれは、「人間は生き物で、そういった部分を愛してしまうから」なんじゃないかと。人間は生き物で、それでいいと思っている、あるいは、それ以上にはなれない。
そして日本人はそういった部分が強く、資本や科学が覆い尽くしていく世の中とズレることが多い。だから他国から「変な国だ」などと評される。
すこし哲学的になりますが、人間の存在論は「なりいでてある」のか「つくられてある」のかに二分されるそうです。出典はこちら。
飛躍しているかもしれないですが、「なる」と「つくる」の二項対立は、存在のみならず、多くの事象にも当てはまると感じます。
なる/つくる
自然/人工
アナログ/デジタル
本能や感情/理性
無意識/意識
アート/ロジック
社会主義的なもの/資本主義的なもの
芸術/科学
有機的/無機的
レイヤーなどぐちゃぐちゃでかなり乱暴な分け方なのですがなんとなく伝わりましたでしょうか?ロジックが不安定だと出口先生に怒られるかもですが・・
でも振り子の正体はこの「なる」と「つくる」にあると思うんですよね。
振り子の中で生き続ける人間と、人間らしい在り方
人間って、7万年前の認知革命以後、ずっとこの「なる」と「つくる」の振り子に揺さぶられながら生きてきたんじゃないかと。外的報酬を頼りに、つまり「なる」部分を「つくる」部分で引っ張って引き締めて、今日まで繁栄してきた。
私自身も含めて、世の中には、勉強といいますか、知性を身につけようとしている人が、必要とされている以上に、圧倒的に少なすぎると感じます。
一方で、反知性主義の中心にあると感じた「生き物としての自分を愛してしまう」感覚も、そのこと自体が悪ではない。むしろしっかりとそれを味わいながらも、「理性」を求めて行動する。それが「人間らしい在り方」なのではないでしょうか。だから、「なる」側の「好奇心」で、知性を追い求めることが大切なんですよね。
こういった構図をまずは自覚して、より良く「在る」ためにどうすればよいか、一人ひとりが知性でもって考え行動することが、人間が次に向かうため、あるいは、人生を豊かに味わう上で、とても大切なことだと考えています。
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