選択の権利がない仕事に、当事者意識を持つのは難しい。

会議で居眠りをしてしまう僕は、前にこんなことを言われた。
「当事者意識がないから居眠りなんかするんだ!当事者意識を持て!」

持てと言われて持てるものなら持ってみたいし、如何せん何を言ってるのか分からない会議の議事録は頭がついて行かない。

それに僕は何かを聞きながらメモを取る事が出来ないので、余計に大変だった。
見たことも無い言語の本を2時間かけて読めと言われて、2時間起きていられる人がいたら尊敬する。
それと似たような感じだ。

ただでさえ、通勤距離が遠いので朝早く起きていて、余計に眠い。
毎日怒られるので、会社に行くのが嫌になって眠れなくなる悪循環。

これはある種の拷問では無いかと思うほどに辛かった。(日本の自殺者数が多い原因はこういう所かもしれない)

本題に戻ろう。
当事者意識というものは、自分の仕事に責任を持って取り組むことだと僕は思っている。
しかし、なんの選択もできず、言われたこと以外何も出来ない場所で責任だけを持てというのは、なんだか人柱にされているようで納得は出来ない。

これは僕のわがままなのだろうか?
僕が真面目ではないから、そう思うのだろうか?

メンタリストDaiGoさん曰く、人が幸福を感じる仕事というのは、どれだけ自分に裁量が与えられているかによるらしい。

何も仕事だけではなくて、学校のよく分からない校則に納得いかないのも、子供が親が勝手に決めたことに反抗するのも、自分になんの権利もなく決められてしまっているからじゃないだろうか。

もしも、仕事の内容働く時間、その使い方、給料の歩合や固定を自分で選択出来たら?
もしも、学校の校則や罰則を自分達で決められたら?
もしも、子供が自分のやることを自分で決めて行動出来たら?

少なくとも、自分達で何も決められなかった時よりは、当事者意識(責任)を持てるようになるんじゃないだろうか?
それだけではなく、自ら考えて行動するという成長に繋がると思う。

日本社会では、やたらと「指示待ち人間は仕事が出ない」という言葉を聞くが、そもそも指示待ち人間を生み出すための社会システムになっているなのに、そのシステムが生み出した正解を否定しても意味が無い。

一個人を責めても、社会は変わらないし、むしろその個人をどんどんダメにしていくだけだ。
そもそも責められるだけの責を負っているようにも思えない。

「当事者意識を持て!」という言葉を発する前に、
それだけの責任に伴うだけの権利や裁量を与えてから言うべきだと思う。

ただただよく分からない指示をされて、当事者意識を持てというのは難しい。

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