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【小説】短編集サクラサク(3/4) らしくない

短編集サクラサク
3.らしくない

パソコンのキーボードを叩く音が響くオフィス。
そろそろ休憩でもしようかという頃、男の明るい声が聞こえてきた。

「じゃあ何か買ってきますよ。俺も今、コーヒー買ってこようと思ってたところなんで」

部署で一番若い木下が、同僚たちの飲み物の注文を取り始めた。

木下は俺の二個下で、同じ地元の後輩でもある。昔からよく気がつく性格で、あれこれと人の世話を焼くのが好きだった。
飲み会でも一番下座へ座り、率先して注文を取ったり、空いた皿をまとめたりと、甲斐甲斐しく雑用を引き受ける。

例えるなら、部活のマネージャーのような存在といったところか。

俺のも買ってきてほしいなと思ったところで、
「林さんは何にします?」
木下がタイミングよくこっちを向いた。さすがである。これでかわいい女だったら嫁にしたいところだ。

「ああ、コーヒー頼む。ブラックな」
「わっかりましたーっ」

調子の良さそうな軽い返事を残し、木下は出ていった。

それから何分経っただろうか。
パソコンの画面を見つめていると、ふわりとコーヒーの匂いが鼻腔をくすぐった。周りを見ると、ほとんどの者が缶コーヒーやらペットボトルのお茶やらを手にしていた。
木下がいつの間にか戻っていたらしい。

俺のコーヒーはまだか、と見ると、木下は仕事モードの顔でパソコンに向かっている。

「おい木下、俺のコーヒーは?」
「えっ、あれ? ないですか?」
「ねぇよ」

思わずいらついた声が出る。
大人気なかったかとも思ったが、木下がへらへら笑っていることで、いら立ちがさらに増す。

「すんません! 今買ってきますね!」
「あーもういいよ、別に」
片手を振って、どうってことないという素振りを演じる。

パソコン脇に置いてある、今朝買ってきた缶コーヒーに手をのばす。とっくにぬるくなった、一口にも満たない液体がのどを伝った。

忘れられるというのは、案外頭にくる。
これなら注文を間違えられた方がまだマシだ。

  *

「珍しいな、お前が木下の愚痴を言うなんて」
昼休み。社員食堂で、同期の森田にコーヒーの件を語った。

「あいつのせいで俺のハートは深く傷ついたんだよ」
「まあまあ、そうカッカすんなって。今日のところは大目に見てやれよ。あいつ明日異動なんだろ? 最後くらいは穏やかに送り出さないとな」

森田も同じ地元だから、木下とも当然知らない仲ではない。

「わかってるよ。わかってるけどさ」
何でよりによって俺のだけ忘れるんだ。

治まらない怒りをぶつけるようにカツ丼をかっこんでいると、食堂で働く女性の一人、佐々木さんが隣のテーブルを拭いていた。

佐々木さんは三十を少し過ぎたくらいの、「色白ちょい美人」である。
今日もきびきびと働く姿がすてきだなぁ、などと佐々木さんを眺めながら怒りを紛らわす。

――が、彼女の拭いたテーブルを見て、再び眉間にしわが寄った。

「ちょっと佐々木さん、いくら何でもそれじゃあ拭いた意味ないんじゃない?」

言わずにはいられないほど、彼女の拭いたテーブルはビチャビチャに濡れていた。
ビチャビチャの軌跡を見ると、拭き方も大雑把というか、雑すぎる。いつもこんなだったろうか?

「あっ、ごめんなさい。布巾の絞り方が甘かったのね」
佐々木さんは布巾を絞り直しに、慌てて厨房へ戻っていった。

絞り方が甘かった、というレベルだろうか。いくら「色白ちょい美人」でも、あれほどビチャビチャな状態をおかしいとも思わずに拭き続けるのはいかがなものか。

「残念だなぁ。ちょい美人なのに」
俺は呆れながら、丼に残った飯をかっこんだ。

  *

定時後、予約していた居酒屋へ部署のみんなが集まる。木下の送別会だ。
普段は酒を飲まずに送迎を買って出るやつだが、さすがに今日は主役。上座に座らせられ、恐縮しつつも上機嫌で飲んでいる。

……しかしあれは飲みすぎだろう。
店中に聞こえる大声。だらしない顔と言動。昼間のこともあるせいか、木下の浮かれっぷりが目に余る。というかマジでうるせぇ今日のコイツ。

「おい木下、ちょっと声のボリューム下げろ。騒ぎすぎだ」
「あ、そっすか? スイマセン!」

何度か注意したが、浮かれっぷりは悪化。

「お前本当にいいかげんにしろって! うるせぇんだよ!」
声を荒げて注意する。
見ろ、店員も苦笑いしてるじゃないか。

「まあまあ、林も落ち着けって」
森田がなだめる。
俺よりも木下をどうにかしてくれ。

「スイマセン林さん! 俺この部署が名残惜しくてー」
へらへらと笑う木下に憎しみすら抱く。

今日はコイツの送別会なのはわかるが、何も今生の別れというわけではない。
それに木下の方は、コーヒー買ってくるのを忘れるほど俺のことはどうでもいいと思ってるわけだし。これ以上コイツに付き合って時間を潰すのが急に無駄に思えた。

「……俺、先帰るわ」
森田に告げて、二次会には付き合わずに帰路に着いた。

翌日、予定通り木下は他部署に異動した。

それから数ヶ月後――
木下の父親がガンで亡くなった。

  *

訃報を聞いて、森田と一緒に通夜へ行く。
弔問客は他にも何人かいた。
さすがに落ち込んでいるのかと思ったが、木下は普段と変わらない顔で俺たちを迎えた。

「前に病院で父ちゃんのおなか開けたんだよね。そしたら医者が、もうだめだって」

急須にポットの湯を注ぎながら説明する木下。その語り口は、ほどんどいつもと変わらない。
ただ、ほんの少し声に力がないだけ。

「俺が異動する2日前だったかな、それわかったの」

――異動の2日前?
森田がしんみりと相槌を打つ中、心臓が跳ね上がる。

ということは、送別会があった日の前日に、木下は――

「でもよかったよ。1ヶ月もつかどうかって言われてたとこを、3ヶ月近くもったからねぇ」

そんな風に話すな。
天気の話じゃないんだ。
そんな風にいつもと同じ顔で、父親の死を語るな。

あの日も、木下は笑っていた。
でも俺のコーヒーを忘れたり、飲みすぎて浮かれまくったり……。

なぜお前がらしくない言動を連発していたのか、ばかな俺が、今ようやくわかったから。

だから、もうそんな風に笑うな、木下――

畳の上に正座し、長テーブルに集まる弔問客に茶を淹れている木下を、直視できずにうつむく。

「木下……」

絞り出した俺の声は、誰の耳にも入っていない。もちろん木下にも。
それでも俺は、言わずにはいられなかった。

「木下……ごめん……」

うつむいて発した情けない言葉は、誰の耳にも届くことなく、俺の膝にこぼれ落ちた。

通夜の帰り、森田と桜並木をぶらりぶらりと並んで歩く。

「なあ森田……」
「ん?」
「いつもと何かが違うときってのはさ、何かあるもんだな」
「何だ急に」
「人が『らしくない』行動を取っているときってのはさ、やっぱそうなってしまうだけの、事情があるんだな」
「……ああ、いつぞやのコーヒー事件のことか? お前、案外根に持つなあ」
「根に持つは余計だ」

俺の脳裏に、木下の笑った顔が浮かんだ。
その笑顔の下に、一体どれだけの苦悩を隠していたのか。

「あんまり気にすんなよ」
「慰めるな。余計落ち込む」
「ま、勉強になったんならそれでいいんじゃねえの?」
「軽いなぁ、森田は」
「いつまでも同じところで落ち込んでたってしょうがねえよ。反省してんならさ、これからを上手くやればいいんじゃねえ?」
「……お前大人だな」

ため息をついて上を向くと、桜の枝が俺の顔をのぞき込んでいる。だいぶ夜気もぬるむ季節になってきたが、桜はまだつぼんでいた。

  *

数日後の昼休み、社員食堂――

森田と昼飯を食べていると、今日も佐々木さんが客の去ったテーブルを拭いてまわっていた。

相変わらず、布巾の水気が多い。

「佐々木さん」
彼女の手が止まる。
こちらを向いたその顔は、「色白ちょい美人」というレベルを通り越して、青白い。

「もしかして体調悪い? ここんとこずっと、らしくないよね」

彼女の顔が、さっと強張った。
見開かれた目が突然潤んだかと思うと、ぼろぼろと大粒の涙が落ちていった。

「ちょっ、えっ? 何、どうしたの?」

声を殺してはいるが、肩を震わせ、嗚咽を漏らしながらいよいよ本格的に泣き始める。食堂のおばちゃんたちににらまれながら、俺と森田はおろおろと佐々木さんを慰めた。

その数日後だ。
彼女が入院したという話を聞いたのは。

「子宮筋腫だってさ。そのせいでずっと貧血がひどかったらしい。食堂のおばちゃんたち誰も知らなかったんだって」

森田が豚の生姜焼きにかぶりつきながら教えてくれた。

「どうりでなぁ……」
顔色が悪く、布巾を絞る力もなかったわけだ。

「でもよかったな」
森田がぽつりと言った。
「何が」
聞き返してカツカレーのカツに食らいつく。

「気付いてあげられてさ」

手を止めて顔を上げると、森田がうっすらと笑みを浮かべて見つめていた。

森田からカツカレーに目を戻すと、
「……そうだな」
森田と同じ笑みが、ごく自然に浮かんだ。

俺も森田も、もくもくと食べ続けた。
森田は豚の生姜焼きのタレで飯を汚しながら食べ、俺はカツにカレーを塗りつけて頬張る。

「なあ、林」
飯を飲み込んだ森田が呼んだ。
「なんだ」
「今日飲みに行かないか? 木下も誘ってさ」

再び手を止めて顔を上げると、森田は箸を置いて窓の外を見上げていた。
森田につられて視線を追うと、見事な枝ぶりの桜の木があった。

「――そうだな。行くか」

この間までつぼみだった桜は、いつの間にか、咲き始めていた。


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