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【小説】太陽のヴェーダ 先生が私に教えてくれたこと(32)

第1話あらすじ

  ●三十人のうちの一人

日曜日。
館内は平日より利用者が多く、職員はほとんどが対応に追われている。

沢村はいつものように書庫にこもっていた。
美咲もいつも通り、沢村の手伝いをしながら業務をこなしていた。

沢村はいつもと変わらない態度で美咲に接してくれた。いつも通り美咲に仕事の指示をし、いつも通り雑談もする。
でもそれは沢村の優しさであって、いつまでも甘えていいものではない。

早く、決着をつけなければ――

「沢村さん、ファイル持って来ました。ここに置きますね」
「助かるよ、ありがとう」

沢村が笑顔で返し、資料に目を戻す。
美咲は立ち去らず、意を決して口を開いた。

「あの……っ」

美咲の緊張した気配を察したのか、沢村の手の動きが止まった。ゆっくりと顔を上げ、美咲を見上げる。

沢村と目が合って、足がすくむ。
怖気付いて、できることなら逃げ出したい。

「――いいよ」
沢村がいつもとは違う、少し困った顔で笑った。
「ふるなら今すぐふってくれ。大丈夫、何言われてもまたいつも通りにするから」

その言葉が、美咲の背中を後押しした。
「お返事をする前に、お話ししたいことがあります」

 

勤務後、前に来た喫茶店で、二人は向かい合って座っていた。
「食べてから話さない? 腹減っちゃった」
料理が運ばれてきたが、これから話すことを思うと味などまったく感じられなかった。

「さて、腹も膨れたし。話って何かな」

食後のコーヒーを前にして、いよいよ美咲にお鉢が回ってきた。第一声を発するまでの気が遠くなるような間も、沢村は気長に待ってくれた。

バッグの中に手を入れる。毎日必ず持ち歩いている、ハガキほどの大きさの紙。それを沢村の前に置く。

「これは?」
いい職場だったけど、もう契約更新はないかも知れない。
「特定疾患の、医療費の受給者証です」
沢村とのことも、これで、終わる。
「病名は、そこに書いてある通りです」

沢村は受給者証に目を落とすと、上から順に視線を走らせた。視線が止まり、病名をたどる。
「顕微鏡的多発血管炎――私の、持病です」
沢村が受給者証から顔を上げた。

「お話ししたいことというのは、私の体のことなんです」

不思議と緊張は消えていた。
美咲は丁寧に、自分の体のことを話した。
かつて雪洋がそうしてくれたように。

 

コーヒーにも手をつけず、沢村は黙って聞いている。話し終え、美咲は深く息を吐いた。
――これでいい。

沢村は「そっか」とつぶやいて、とっくに冷めたコーヒーに口をつけた。ソーサーに置いたカップの柄を指先でいじりながら、今度は沢村が語り始める。

「君の普段の行動……丁寧な動作とか、整理整頓とか、仕事が早い、飲み会も長居しない、というのはすべて――」
沢村の目が、カップから美咲に移る。
「自分の身を守るための行動だったんだね」

美咲は薄く微笑んで、沢村の視線に応えた。

「付き合ってほしいって言われた時、嬉しかったです。持病を知らないとはいえ、こんな私にって……」
美咲は深々と頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
また明日からいつも通り、沢村さんと仕事ができますように――

これでこの話もおしまいだ。
バッグからサイフを取り出す。今日は沢村の分も出すつもりだ。

「ちょっと待って、勝手に終わらせないで」
サイフを開ける手を止め、顔を上げる。
「俺の告白、なかったことにしたくて今の話したの?」

なかったことに、というより、こんな話をされれば沢村の方から願い下げではないのか。

「だって私、こんな病気持ちですから……」
沢村は、うーん、とうなって腕組みをし、天井を仰いだ。

「今の時代はさ、『私を幸せにして』って結婚する人が多いんだろうけど。昔は『この人と苦労がしたい』って思って一緒になったもんなんだよ」

うちのばあちゃんの受け売りだけどね、と沢村が笑う。

「俺、天野さんとだったらさ、それ、できる気がするんだよね。根拠のまったくない純度100%の直感だけど。天野さんの持病が、今後悪化するのか、まったく症状出ずに一生終わるのか、それはわからない。でもさ、俺がいつ大病患うか、いつ事故に遭うかも、同じようにわからないよね」

美咲は、沢村の話を聞きながら、動くことができなかった。

「つまりなんていうか……『病めるときも、健やかなるときも』ってやつ?」
照れくさそうに沢村が笑う。
「俺もこの歳だから、遊びで付き合うつもりはないよ。それなりに先のことまで考えて……ってごめん、重いよね、こんな話」

涙が頬を伝った。
どうしよう、こんなにありがたいことってあるんだろうか。

「でも持病ありの私より、現時点で健康で、もっといい人もたくさんいると思います」
「うん、そうだね。でもそっちの道に行こうとは思わないんだよね」
「どうして……」
「惚れちゃったからじゃない? 俺が出会ったのは天野さんだったんだから。天野さんの立ち居振る舞い、俺はいいなと思っていつも見てた。病気になったからこその縁……なんて言われても嬉しくないだろうけど。君は病に屈してない。受け入れて、自己管理をちゃんとしている。そういうのって、実はすごいことだと俺は思うよ」

先生、どうしよう――

「だから俺の気持ちは変わってないよ。というかますます惚れ込んじゃってんだけど」

沢村さん本当に、「三十人のうちの一人」だったよ。どうしよう、先生……

「あとは君次第だよ」

君次第――
美咲の思考が急にかたまる。

「……まだ、迷ってるようだね」
沢村が悲しげな目をして微笑んだ。

――迷っている。
なぜ、どうして。

沢村の言葉は泣くほど嬉しかったというのに。
どうして沢村の想いに応える言葉が出ないのか。

「病気のこと教えてくれたってことはさ、俺のこと、真剣に考えてくれたってことだよね? そこは自惚れてもいいのかな」

美咲はこくんとうなずいた。
真剣に考えた。
沢村のことは嫌いではない。
むしろ好きだと思う。

これからもっと深く知り合ったら、もっと好きになれるだろう。この人と一緒になったら、苦労も幸せに変わるだろう、と――

「ねえ天野さん。病気以外のことで、あとは何が君をそんなに悩ませているのかな」

穏やかに、美咲の心に寄り添うように沢村が問う。

病気以外のこと――
美咲は答えることができなかった。

「いいよ、色々悩むこともあるよね。イケメンじゃないとか、もっと若い方がいいとか」

からからと笑う沢村の、こういうところが優しさであり、ありがたいと思う。

「ありがとう。話してくれて嬉しかった」

お礼を、お詫びをしなきゃいけないのはこっちなのに。美咲はただただ首を横に振った。

「じゃあさ、嫌じゃなかったら今度二人で出かけてみない? もっと天野さんのこと知りたいし、天野さんももっと俺のこと知ってみて、それからのんびり答えを出せばいいよ」
「でもそれじゃ待たせてしまうことに……」
「そりゃなんの音沙汰もないと焦っちゃうけど。でも今日みたいに悩んでいることを正直に打ち明けてくれるのは、気持ちが近づいた感じがしてすごく嬉しい。もしかしたら返事をくれることより嬉しいかも知れない」

なんてね、と照れ隠しなのか、沢村が無邪気に笑った。

「ということで、行きたいところある?」

ものを考える力はもう微塵も残っていない。持病告白にすべての精力をとっくに使い果たしてしまった。
美咲が放心気味に黙っていると、代わりに沢村が提案した。

「十五日に花火大会があるでしょ? 七時からだから閉館後でも間に合うし。花火なら座って見られるし……どうかな」

――美咲も見つけたらいい。
体を理解してくれる、とことん優しい、器の大きい人。

思い出す雪洋の言葉。
沢村に、もっと寄り添ってみよう。
もっと、心を開いてみよう。

「――はい。ぜひ、ご一緒させてください」

そうしていたら、いつか本当に、迷いなくこの人を好きになれるだろうか。



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